2009年6月23日09時32分

工藤公敏牧師「北アルプスのふところから神の懐へ」(7)・・・結婚式

コラムニスト : 工藤公敏

結婚式

東京の大久保教会で持たれた結婚式には、急のことであったが関係者が集まって下さった。高校時代の鳥羽季義君、鹿児島から東京に来られ勤めておられた水原悦子さんが見えられた。長野から義兄の利徳さんと英子姉が来てくれた。頼子の兄さんの信成さん、弟の勝行さん、妹の矢島京子さんと義哉さんが来られた。

中原先生、大塚望先生、田中主悦先生、藤波勝正先生の四人で賛美をして下さった。名古屋から毛戸先生、麗子先生が来て下さって嬉しかった。東京、関東教区の先生方や、岩間の畑岡さんが見えられた。

家内のドレスは、田中主悦先生の奥さんの愛の配慮で奥さんの式の時のものを借りた。私は名古屋で買って頂いた愛が一杯詰まっている式服(モーニング)を着て式に臨んだ。家内の父と母が愛を込めた準備をしてくれた。

精薄の兄がいる私は結婚が無理かと、高校時代考えたことがあった。父の自殺、これも結婚には、不利であった。イエス・キリストを信じてからも、様々な所を通過した。結婚は無理かと思ったが、神は哀れんで結婚に導いて下さった。私の心の中に「このことは、主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません」の、創世記二四章五十節が往来した。

アブラハムのしもべがイサクの嫁を祈りながら探し、ラクダにまで水を飲ませてくれたリベカに出会う場面がある。リベカの兄ラバンがアブラハムのしもべに語った言葉が私の心に響いてきた。神から出た、神が会わせて下さった神会い結婚だ。

結婚後三十数年の間、「このことは、主から出たことですから…」の聖句に幾度も支えられ励まされたことか。

結婚式、感謝会も主の祝福のうちに終り夢のような事が現実となった。婚約式もなかった、指輪もなかった。私の父も母も亡くなっていた。でも神の愛がいっぱいの結婚式だった。

新婚旅行

上野二十二時発の夜行列車に乗り、祈り待っていて下さる網走に向かった。頼子は汽車や船が苦手なようで、酔い続けていた。気の毒なくらい辛いようだ。

私の友人は、「結婚して任地に着くまでの妻に対する教育が大事である。だから夫に従うように任地に着くまでに話し合い了解させておくことが大切だ」と先輩としてアドバイスしてくれた。結婚二年先輩の助言はありがたかったが、頼子に教育する時間が持てなかった。

後になって知ったことだが、頼子には夫に従うという教育もしつけも必要がなかった。良く私のような者に従い支えてくれたことを振り返って感謝に溢れる。

函館に着き北海道に入ったことに心が躍った。この網走までの旅を妻とゆっくり語り合いたかったが少しの時間しかもてなかったことは残念だった。私は二十八歳。これから妻と心を合わせて祈りながら教会の奉仕ができると思うと希望が湧いてくる。

翌朝青函連絡船で函館につき、それから汽車で夜一〇時に網走に着いた。網走の町は魚臭かったが、数名の方が駅に迎えに来て下さっていた。

網走川を渡り、ハマナス荘のホテルの横にある教会に着いてみると、布団袋もほどいて下さってあった。

家内の母が買ってくれた新しい布団二組が私と家内の財産であった。

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工藤公敏

工藤公敏

(くどう・きみとし)

1937年、長野県大町市生まれ。基督兄弟団聖書学院、ルーサー・ライス大学院日本校卒業。基督兄弟団理事長、同聖書学院院長など歴任。基督兄弟団目黒教会牧師、キリスト再臨待望同志会会長、目黒区保護司。著書に『北アルプスのふところから神の懐へ』など。(2023年4月14日死去、プロフィールは執筆当時のものです)