聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本コラム独自の「略語」を用いる。
─総括─
本コラムが問題としているのは、個々の教理の是非ではない。また、新たな教理を打ち立てようとしているのでもない。なぜ同じ聖書を用いながら、これほどまでに解釈の違いが起き、神学論争を繰り返してきたのかという点である。
それに対する本コラムの結論は明確である。論争の原因は、聖書そのものにあるのではない。聖書の言葉を読む私たちが、無自覚に用いてきた「人間的な標準」にこそある。「罪には罰」とする、すなわち「行い」で人の価値を判断する「人間的な標準」で、聖書の言葉の「表層」だけを読み、神の言葉を受け取る人の側の「霊的構造」を見てこなかったことにある。
その結果、神の言葉の「表層」に矛盾があると、解釈を巡って衝突してきた。しかし、人の「霊的構造」を視座に据えて読み直すと、矛盾に見えた「表層」は矛盾ではなかったことを、第1章では確認してきた。
分かりやすく言えば、聖書の言葉は、建物の外観のように「表層」として現れる。しかし、建物にはその外観を支えている「構造」があるように、聖書の言葉にもその言葉を支えている「構造」がある。
ところが、建物の外観をいくら観察しても内部の「構造」は見えないように、聖書の言葉をいくら眺めても、その言葉を支えている「構造」は見えない。「構造」が見えなければ、なぜこの言葉の「表層」が成立するのかも分からない。
分からないまま言葉の「表層」だけに固執するなら矛盾は避けられず、解釈を巡って論争が生まれてしまう。そこで、一つの例を提示する。
目の前に「もう好きなだけ甘いものを食べなさい」と書かれた言葉があったとしよう。言葉の「表層」だけを見れば、それは優しい「許可」に見える。しかし、これが重度の生活習慣病を患う患者に対し、主治医があきれ果てて語った言葉であると分かれば、どうだろうか。その真意は優しい「許可」などではなく、「これ以上続けるなら、あとは死を待つだけだ!」という恐ろしい「最後通牒」であると分かる。
この例が示しているのは、言葉というものは、その「表層」だけを真に受けると致命的な誤解を生むということである。語り手と受け手の「状態」が分かって初めて、真の意味が立ち上がってくることを示している。
従って、聖書は神が人に語られた言葉である以上、神と人とがどのような関係にあるのかが分からなければ、神の語られた言葉の真意は分からないのである。
本コラムは、この神と人との関係の仕組みを「霊的構造」と呼び、それを視座に聖書を読めば、聖書は矛盾なく読めることを述べてきた。そして、第1章では5つの主要な論争を取り上げ、実際に「霊的構造」を視座にすれば論争が統合できるかを確認した。
その5つの主要な論争は、「救済論」「終末論」「贖罪論」「聖霊論」「信仰と行い」である。これらの論争が長きにわたってキリスト教界を分断してきた原因は、決して聖書の言葉に矛盾があったからではなく、御言葉を受け取る人間の側の「霊的構造」を見落としたことにあった。
そこで本コラムは、聖書の言葉の「表層」を支えている見えない「霊的構造」を視座に置き、そこから聖書を読み直すことで、全ての論争が一つに統合できることを明らかにしてきた。では、その統合を簡単に整理してみたい。
【「救済論」の統合】
「救済論」の対立は、救いに関する御言葉の「表層」の違いから、「神の主権」か「人間の自由」かという二者択一の対立であった。しかし「霊的構造」という視座から見れば、神は人の「魂」を通して直接呼びかけ、人はその呼びかけに「今」応答できるため、応答すれば救われるというその仕組みが明瞭になる。
故に、救いは第一に神の呼びかけが不可欠であり、その真理を言い表した「表層」が「神の主権」である。また、救いは第二に、人は神の呼びかけに「今」応答する必要があり、そのことを言い表した「表層」が「人間の自由」である。
つまり、神と人との関係を成立させる「霊的構造」を把握すれば、救いに関する御言葉の「表層」は対立しなくなる。
【「終末論」の統合】
「終末論」の対立は「千年王国」を歴史の時間として読んだことから生じた。しかし、神は「永遠」であり、人は「有限」であるため、「永遠性」と「有限性」との接点は「今」しかないという「霊的構造」を視座にすれば、「千年王国」は歴史の順序ではなく、救われた者が「今」受け取る現実であることが分かる。
つまり、終末とは、人類全体の歴史の終わりではなく、一人一人が神と出会う「今」の出来事なのである。このように、人の「霊的構造」が分かれば、「千年王国」の解釈を巡っての対立は起きない。
【「贖罪論」の統合】
「贖罪論」の対立は、十字架の意味を1つの御言葉の「表層」で説明しようとしたことから生じた。しかし、悪魔の仕業で「死」が入り込み、人の現状における「霊的構造」に3つの問題が生じたことが分かれば、対立しなくなる。
その問題とは、人が「罪」を犯すこと、「不安」を覚えること、「悪魔」に支配されること、この3つの構造的欠陥を指す。この3つの問題が分かれば、人の回復を担った十字架には3つの働きがあったことが容易に理解できる。
第一に「罪」(死)の除去である。このことを説明した御言葉の「表層」が「代償説」を生んだ。第二に「不安」の除去である。このことを説明した御言葉の「表層」が「道徳感化説」を生んだ。第三に「悪魔」の除去である。このことを説明した御言葉の「表層」が「勝利者キリスト説」を生んだ。
いずれも、人の現状における「霊的構造」の3つの問題を回復するための神の働きであり、神と人との完全な和解にはどれもが不可欠なため、そこには本来対立は起きないのである。
【「聖霊論」の統合】
「聖霊論」の対立は、聖霊の働きを1つの現象に限定したことから生じた。しかし、人の現状における「霊的構造」から3つの問題が生じたため、それを助ける聖霊の働きにも3つある。
問題の1つ目は、「罪」を犯す構造となり、神との霊的な結び付きを失ったことである。2つ目は「不安」を覚える構造となり、人から良く思われることを優先し、伝道できなくなったことである。3つ目は「悪魔」に支配されて神が見えない構造となり、神からの御言葉が信じられなくなったことである。
この3つが分かれば、聖霊の働きには3つの分野があることが理解できる。第一に「霊の再生」であり、第二に「伝道の力」であり、第三に「御言葉を信じさせる助け」である。
それぞれの働きを聖書はつづっているため、そのことが分かればペンテコステ派と非ペンテコステ派という対立は起きない。どちらも同じ聖霊の働きの異なる分野を見ていただけであり、どれもが必要なため、そこには本来対立は生じ得ないのである。
【「信仰と行い」の統合】
「信仰と行い」の対立は、「人間的な標準」で御言葉を読んだことから生じてしまった。「人間的な標準」とは、人の価値を「行い」で判断する物差しであり、この物差しが「行い=努力」「信仰=信じるだけ」の二者択一の構造にしてしまうために対立が起きたのである。
しかし、救いに必要な「信仰」を自力では持てないという現状の「霊的構造」を見れば、「行い」は救いの条件ではなく、「信仰」を起動させるためのプロセスであることが分かる。なぜなら、神からの律法である「愛せよ」を実行しようとすれば、それが「できない」限界に行き着き、神にあわれみを乞うようになるからである。
ここに、神への「信仰」が起動する。故に、パウロとヤコブ書の「表層」は矛盾しない。どちらも不可欠であって、そこには本来対立は起きないのである。
以上のように、聖書の言葉を「表層」だけで読むのではなく、その言葉を受け取る人の側の「霊的構造」から読むなら、そこに矛盾は生まれない。それぞれの御言葉は統合され、神の啓示の統一性が明らかになる。
さて、こうした神学の対立は、イエスが来られる以前からあり、旧約聖書について、その意味を巡っての論争があった。次に、その話をしたい。
【イエス以前の対立】
イエス以前のユダヤ社会には、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党などがあり、彼らは聖書(旧約聖書)の解釈だけでなく、律法の権威、神殿制度、終末観、政治的立場を巡って互いに対立していた。
パリサイ派は、成文の律法に加えて口伝律法も神からの啓示と見なし、その厳格な遵守こそ神の前に義とされる道であると考えた。サドカイ派はモーセ五書のみに権威を置き、復活や天使、霊の存在を否定した。エッセネ派は共同生活と清さを重視し、光と闇の戦いという終末論的世界観を強調した。熱心党は律法への熱心さを政治的抵抗へと結び付け、ローマ支配からの解放こそ神の国の実現であると理解した。
いずれの党派も、聖書の言葉を「人間的な標準」に基づいて解釈し、その言葉の「表層」にのみとらわれ、それを支える人の側の「霊的構造」を見てはいなかった。そのため、彼らの構築した神学においても、こうした対立が起きたのである。
そこに現れたのがイエスであり、その説教こそ、当時の対立を根本から統合する、人の「霊的構造」に根差した旧約聖書の解釈であった。というのも、神ご自身であるイエスは、神と人との関係がどのように成立するかという「霊的構造」と、その関係の回復には何が必要であるかを誰よりもご存じであり、その視座に立って語られたからである。そのことで、表層的な解釈で対立、硬直していた当時の宗教理解を根底から打ち砕き、真理へと統合されたのである。
例えば、「食物」や「手洗い」に関する清めの律法の再解釈がそれである。当時の宗教指導者たちは、律法の規定通りに外側を洗う「行い」によって、神の前に清くなれるという「表層」の言葉をそのまま受け取り、それを他者にも強要していた。
しかしイエスは、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(マルコ7:15)と宣言された。人は外側の行いで清くなるのではなく、人の内側(心)にこそ罪の根源があることを指摘された。
つまり、律法が与えられた真の目的は、外側の体裁を整えることではなく、どうにもならない自分の罪に気付かせ、神のあわれみに導くことなのである。これがイエスの再解釈であり、それにより旧約聖書の律法は「人間の行いを測る基準」から「人を神の救いへと導く羅針盤」へと見事に統合されたのであった。
また、パリサイ派は、律法の行いによって人は義とされると考えていたが、イエスはその解釈が誤りであることを、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈った取税人が義とされたと語ることで示された。
こうして、イエスは旧約聖書を人の「霊的構造」に基づいて再解釈し、加えて十字架と復活により、律法を霊的に完成させ、神と人との関係の回復を成し遂げられたのである。それに対する信仰が、後にキリスト教と呼ばれる共同体の基礎となった。
このように人の「霊的構造」を視座に置いて聖書を読めば、矛盾に見えた聖書の言葉の「表層」は統合され、矛盾はなくなる。しかし、人の「霊的構造」を見えなくさせている敵がいる。それこそが、パウロが訴えた「人間的な標準」である。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Ⅱコリント5:16)
つまり、この「人間的な標準」の眼鏡を外すことにこそ、神学の限界の「突破口」がある。そこで、アウグスティヌスの「突破口」の話を最後にしたい。
【アウグスティヌスの「突破口」】
さまざまな聖書解釈が飛び交い、教理がいまだ定まっていなかった時代において、西方キリスト教の神学的定礎となる「三位一体論」や「恩寵論」を強固に確立したのがアウグスティヌス(354〜430)であった(『三位一体論』『霊と文字』)。
だが彼にも、深い霊的迷走の時期があった。彼が書いた『告白』によれば、彼は若い頃、聖書の言葉の「表層」だけで解釈するマニ教に心酔していた。マニ教は、矛盾する「表層」を神話で統合し、あたかも真実かのように教えていたため、納得を求めていた彼の心を捉えたのである。特に、全ての始まりが唯一の神であるなら「善なる神からなぜ悪が出るのか」という難問に対し、悪を独立した永遠の原理とする神話で統合を図った点に、彼は強く引かれた。
しかし、次第にそのような聖書解釈の知的欺瞞(ぎまん)に気付き、彼はカトリックの真理へと向かうのである。その際、アウグスティヌスにとっての導き手になった人が、当時のミラノ司教、アンブロシウス(339ごろ〜397)であった。彼は、パウロが神の霊によって書いた次の御言葉を引用し、聖書解釈の基本を人々に教えていた。
文字は殺しますが、霊は生かします。(Ⅱコリント3:6、新共同訳)
つまり、聖書の言葉はその「表層」の「文字」だけで解釈するのではなく、「文字」を裏で支えている「霊」によって解釈すべきであるということである。パウロは、この「霊」については、この手前で、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(Ⅱコリント3:3、新共同訳)と書いている。神は最初に、「生ける神の霊」で私たちの心に神の思いを書き込んだのである。
これが神と人との関係であり、その神は「人の状態」が病んでいるために回復を願い、神の言葉を語られる。それ故、こうした人の「霊的構造」を視座として「表層」の「文字」を読まない限り、「人の状態」は回復へとは向かわない。それをパウロは、「文字は殺しますが、霊は生かします」と書いたのである。
アンブロシウスは、本コラムでの説明とは詳細が異なるにせよ、同じような趣旨の内容をアウグスティヌスに語り、彼の目を開かせ、「文字」の「表層」だけで読む解釈に終止符を打たせたのである。それが「突破口」となり、当時のキリスト教内の対立は統合され、異端と正統との線引きにアウグスティヌスは成功することができた(参考:『告白』)。
以上で、第1章「主な論争と解決」は終える。次章では、いよいよ神学の限界を打ち破る「突破口」の話に踏み込んでいく(続く)。
◇