2026年7月15日23時08分

途上にて ルカ福音書8章1〜3節 藤崎裕之

コラムニスト : 藤崎裕之

不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(99)

その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。(ルカによる福音書8章1〜3節)

人生はいつも途上である。けして徒上とは書かない。これも不思議ではあるが、途上という言葉には深い含みがあるように思う。途上の終わりは誰も知らない。死をもって終わらないのがキリスト教の教えであるから、死の先にも途上があるはずだ。

教会は聖徒の交わりである。ここで言う聖徒は、人生の途上にあるもの、つまり私たち自身も含まれるのであるし、死後の途上を過ごしている方々も含めている。

教会は地上に生きている者だけの集まりではない。その点について他の宗教がどのように考えているのかは知らないが、とにかくキリスト教における全ての行事は「聖徒の交わり」であるのだから、十分な気遣いが必要なのだ。

見えないものを見て、聞こえないものを聞くという姿勢が求められているのではないだろうか。とはいえ、その点においてこそ私は忘れがちではあるが……。

イエスに従う女性たちは男性よりもずっと多いが、使徒とされるのは男性だけである。そこに差別があると言いたいなら大いに結構だ。

初代キリスト教会はユダヤの伝統に従い、男性だけしか至聖所に入れなかった。使徒はそこに入って特別な奉仕(主にキリストの体を聖別すること)をするのであるから、おのずと男性だけということになる。

使徒になるというのは恩恵ではなくて、使命である。逆に言えば、聖別されたキリストの体を頂くのは恩恵なので男女関係なく、ありがたく頂くことができる。

さて、多くの教派が至聖所を区切らなくなった。それでも聖餐台は残していると思う。そこで聖別が行われるのであるが、聖餐台での聖別も男性だけではなく女性も行う教派が大半であろう。私の立場でそのことを批判するつもりはない。伝統を守る教会もあれば、伝統から離れて先に進む教会もありつつ、それぞれがキリストの教会である。

それでもあえて私は言いたいのであるが、キリストに従って奉仕をするということに関して、もはや「男も女も」関係ないというわけにはいかない。強いていえば、聖書の時代からキリストに従い奉仕するのは大抵の場合は「男だけ」ではなかったということである。聖礼典は特別なものだから使徒が行ったのであろう。

今回の聖書は何度読んでもそれほど記憶に残るという箇所ではない。イエスの一行には絶えず女性がいたのだなと思う程度である。そこにはマグダラのマリヤとヨハナ、スザンナと他に多くの婦人たちも一緒だった。

マグダラのマリヤはイエスによって悪霊を追い出していただいたと添え書きされている。他の女性たちがどういう経緯でイエスに従ったかは不明であるが、とにかくイエスと共に旅をしていたこと、それは単なる旅行ではなくて、自分の持ち物を出し合って一行に奉仕をしていたというのである。

この世的には見返りのない働きである。以前にも書いたかもしれないが、人は悪霊によって滅ぶ。私には自覚があるのだが、悪霊は手を下さないが、悪霊は人を傷みつけ、むしばみ、死への道を歩ませる。あたかもその人が自滅したかのように巧妙に人を滅ぼす。と書けば納得してもらえるだろうか。

悪霊との途上には何の望みもない。悪霊はどのように人に付け入るのか、その過程すら私たちは知らない。かなりどうしようもないのが悪霊である。

この世の災いの根っこが悪霊(悪魔も含めて)の仕業とは言わないが、悪霊の悪行は必ずある。しかし、悪霊も神の前では無力である。勝利の目は皆無である。それがキリスト教の神髄である。キリストとの途上に悪霊は存在しない。キリストとの途上を離れたらその保証はない。

マグダラのマリヤは正しい選択をしたのだ。もちろん、他の婦人たちも男性たちもである。ただし、イエスと肉体的な同伴の最中でも、ちょっとした人間の欲によって本当の意味でのキリストの道を外す。そういう意味でイスカリオテのユダは誠に残念であった。

人生の途上はイエス・キリストと共にある途上であって、単なる徒上であってはならない。自分の持ち物、時間を出し合って共有しながらその途上を歩むのが教会である。そこには傷みもある。しかし、それ故に体だけではない、魂の従いが生まれるのであろう。そう願いたい。(終わり)

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藤崎裕之

藤崎裕之

(ふじさき・ひろゆき)

1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。