
『創造と堕罪 創世記1~3章の神学的釈義』は、ディートリッヒ・ボンヘッファーが米国への留学から帰国して、ベルリン大学で講師をしていた時代のうち、1932年11月から33年2月にかけての大学での講演を、後に著作にしたものである。前作『行為と存在』執筆の3年後のことである。
そのため、前作との関連が大変深く、『行為と存在』で展開された論理が、創世記1~3章において神学的に再構成されているということもできよう。
時代的背景としては、1933年1月にアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、ナチズムが国家権力を掌握したことが挙げられる。ヒトラー崇拝や反ユダヤ主義はそれ以前から存在していたが、この時期に急速に強化されていた。そのため、一方で本書には、ナチズムにおける人間の神格化や、人間を動物として扱うといったことに対する抵抗の萌芽(ほうが)も見られる。
本書の邦訳は、生原優氏によるものだけであり、1962年に『創造と堕落』として単行本で出版された。その後、ボンヘッファー選集9『聖書研究』に、タイトルを「創造と堕罪」に変更して収録され、さらに2005年出版の『ボンヘッファー聖書研究 旧約編』に再収録されている。今回の書評は、最後に挙げたものによって執筆した。
創世記1~3章は、構成的に3つに分けることができ、本書もそれによって分類されている。1)創世記1:1~2:4a、2)創世記2:4b~25、3)創世記3:1~4:1である。1)「天地創造」、2)「アダムとエバの創造」、3)「堕罪」とすることができよう。
前回の『行為と存在』の書評で、『行為と存在』においては、カント以来の哲学者による「人間は『私は私である』と自己を意識することによって、自分を成立させる」という思想が、哲学における「行為」であり、ハイデッガーを中心とする「人間は既に世界の中に投げ込まれて存在している」という思想が「存在」であり、「ボンヘッファーは著作の中でそれらと格闘していた」と伝えた。
『創造と堕罪』の、前述の分類による1には、それらの論理が、旧約聖書という文脈において再構成されていると読むことができる。創世記1章4節では、「神は光を見て、良しとされた」と伝えられていて、この神が良しとされるという言葉は、被造物に対してその後も繰り返される。ボンヘッファーはこのことを、「これがカント的理解に対立する聖書の理解である」(18ページ)としている。
カントにおいては、人間の理性的主体による道徳的行為が善の中心となる。これに対して創世記では、人間の行為に先立って神が被造物を「良し」と宣言する。従って、善の根拠は人間の行為ではなく、神の創造とその言葉にある。ここにおいて、『行為と存在』においてボンヘッファーが追究していた論理が、旧約聖書の解釈として展開されていると見ることができる。
また、1章3節の「光あれ」という神の言葉による光の創造と、16節の太陽の創造を取り上げ、「最初に太陽を今ある姿に造ったのは光であって、太陽が光を造ったのではない」(24ページ)としている。ハイデッガーは著書『存在と時間』において、「現存在は既に世界の中に投げ込まれている」としていて、それによるならば、太陽は現存在として既にそこにあって、光を放っているということになる。
ボンヘッファーは、カント以来の超越論哲学に見られる主体中心的な理解に対して、存在を先に見るハイデッガーを高く評価していた。しかし同時に、ハイデッガーの存在論は存在の根拠を問わず、神との関係を欠いている点には限界を見ていた。そこで『創造と堕罪』においては、太陽の存在の根拠は「光あれ」という神の言葉にあることが語られている。
1章26、27節の人間の創造に関しては、「人間は、最後のものとして、新しいものとして、働かれる神の形として、神から出なければならない。ここにあるものは、ある場所からの移行ではなくて、新しい創造である。それは、ダーウィンとは何ら関係がない」(29ページ)としている。ここで彼は、人間を単なる生物学的存在として理解することを拒否している。人間は神との関係において理解されなければならないのである。
この箇所には、1933年という時代状況をふまえるならば、後のナチズムに対する神学的抵抗の萌芽を見ることもできる。一方では、人間を神との関係においてのみ理解することによって、人間を歴史の救済者や絶対的指導者として神格化する思想への批判が含まれている。他方では、人間の価値を生物学や人種によって規定することを拒否することによって、人間を単なる種族的・自然的存在へと還元する見方への批判も示唆されている。
ボンヘッファー自身はここでナチズムや反ユダヤ主義を直接論じてはいない。しかし、人間を神の被造物として理解するこの人間観の中には、後にナチズムが進める、総統崇拝やユダヤ人の非人間化に対抗する神学的原理の萌芽を見ることができる。
本書の3つの分類のうちの2は、「アダムとエバの創造」である。ここも、『行為と存在』との関係によって書き進められているが、ここでは、園の中央において善悪を知る木と共に生えている生命の木にボンヘッファーが注目していることも記したい。
この聖書箇所では、アダムが造られ、彼はエデンの園に置かれる。そこには生命の木と善悪を知る木がある。ボンヘッファーは、この生命の木を「神の生命の木」(44ページ)という。続けて、「アダムの生命は、中央から来る。この中央は彼自身ではなくて神である。彼の生命は、この現存在の中心そのものを自己の所有としようと企てることなく、この中央の周辺を回り続ける」(同)とする。
ここも「存在は神によって与えられている」という、『行為と存在』の論理展開からの再解釈であるが、それを生命の木と結び付け、人間の現存在はそれを自分の所有とすることはできず、アダムの生命は、神の生命の木から与えられているものであるとしている。その後、アダムの骨からエバが造られ、2人は生命の木の下で神の生命のうちに生きる。
しかし創世記3章になると、2人は堕罪し、エデンの園を追放されるが、そこを扱っているのが3つの分類のうちの3である。そこでは、人間が離れた命の木への道は、ケルビムと回る炎の剣に守衛される。ボンヘッファーは「(守衛の)門の前に立つアダム」(87ページ)として、人間はなおもその木の前に立ち続けたとしている。
そして本書の最後は、「生命の木、キリストの十字架」(88ページ)と、キリストにおいて新たな生命の木が立てられ、門で閉ざされた生命の木が「再び扉を開きたもう、美しき楽園の扉を」(89ページ、ルターの賛美歌よりの引用)として結ばれている。
また、アダムとエバの創造を「他者との関係」において叙述しており、これは、『聖徒の交わり』『行為と存在』、さらに本書の後の、『共に生きる生活』『倫理』においてつながって展開され、獄中書簡によって結実する「他者のための教会」という彼の生涯のテーマの一環を成すものである。
■ ディートリッヒ・ボンヘッファー著『創造と堕罪 創世記1~3章の神学的釈義(ボンヘッファー聖書研究 旧約編)』(新教出版社、2005年7月)
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