私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。……私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。(Ⅱコリント8:16~22)
先日のバザーでは100人以上の方々が奉仕に参加し、手作りの味と笑顔でイエス様の愛を証ししてくれました。近所の方が「おいしかったから」と買いに戻ってこられる姿を見て、そこにイエス様がおられることを実感し、心から感謝しました。私たちの教会は、単なる形式的な集まりではなく、イエス様の愛と救いに対して「熱心」な教会です。
さて、学生キャンプで大洲の青少年交流の家に行った際に「若人の火」というモニュメントを見かけました。巨木の中に若者の情熱と理想の象徴として「永遠に燃え続けるともしび」が置かれています。
しかし残念なことに、実際には火が消えていたのです。これは単なる設備の故障という以上に、私たちの信仰の姿を問いかけているように感じました。ともしびは命の象徴です。もし私たちの心から信仰の炎が消えてしまったら、それは「生きる屍(しかばね)」のようなものです。
私たちはイエス様によって生かされています。今、皆さんの魂の中に、神様によってともされた信仰の炎は赤々と燃えているでしょうか。聖書の中でパウロは、「熱心」という言葉を何度も繰り返し用いて励ましています。私たちの信仰の火をもう一度燃え上がらせるために、共に御言葉に耳を傾けましょう。
1. “熱心さ” を誰か特別な人のものにしない!
パウロはテトスや他の兄弟たちを「熱心な者」として紹介しました。私たちはつい「あの人は熱心だね」と、誰か特定のリーダーや奉仕者だけのものとして熱心さを眺めてしまいがちです。
しかし、熱心さを評論家や見学者のように人ごとにしてはいけません。信仰は知識だけでなく、あなた自身の心の中で燃やされるべきものです。
万代恒雄牧師は、全くのゼロから教会を建て上げた熱心な牧師でした。私たちも他人の熱心さに頼るのではなく、自分自身のうちにある信仰の炎を確認しましょう。
2. “熱心さ” のあふれる教会であることを喜ぼう!
私たちの教会は、1960年代後半に、電話もファックスもちゃんとつながらないような場所に、日本で最初に本格的な伝道者を海外に送り出し、ラジオ放送も始め、カセットやビデオを駆使してメッセージを送り、今のようなインターネットもない時代からテレビ電話で同時中継礼拝を始め、伝道でも常に最先端を切り開いてきました。
それは、一人でも多くの人を主のもとへ導きたいという「熱心さ」があったからです。外に向かって福音を語り続ける使命が私たちにはあります。小さな集まりに見えても、救いの熱心さがあふれる教会であることを喜んでください。
3. 主キリストにある “熱心さ” を自分のうちに見いだそう!
私たちの熱心さは、命を捨ててまで私たちを救ってくださった「熱心な救い主」イエス様から来るものです。アブラハムは75歳から、モーセは80歳から亡くなる120歳まで情熱を持って主に仕えました。
年齢や経験は関係ありません。あなたのうちには既に聖霊の火が与えられています。世の中が冷え切っている今だからこそ、主への愛と献身の炎を自分の中で見いだし、それを聖霊の働きによってもう一度熱く燃え上がらせようではありませんか。
今、主に喜ばれる熱心さが自分自身のうちに燃えていますように、熱心さを与えてくださいと共に祈りましょう。
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