それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:20、21)
いよいよゴールデンウィークです。先日、神戸から戻った際、松山空港には観光客があふれ、蛇口からみかんジュースが出るコーナーにも行列ができていて、世の中がお休みモードに入ったのを感じました。私たちの教会にとっても、今年はバザーや「愛と希望の祭典・四国」があり、本当に特別な、ワクワクする一週間になります。
ところで先日、学生会のみんなと青少年交流の家に行ったときのことです。そこには「若人の火(わこうどのひ)」という立派なモニュメントがありました。大きな丸太の真ん中に灯火があり、「情熱に燃え、理想を掲げる青年の象徴として、永久に燃え続ける」と達筆で書いてあるのです。
ところがふと見ると、その火が……消えていたのです。ガス管まで引いてあるのに、肝心の火が消えている。実にもったいない、残念な光景でした。
私たちの信仰はどうでしょうか。「キリストの素晴らしさを現したい」という願いが、単なる口先だけの言葉になって、火が消えてはいないでしょうか。
今日開いた聖書の箇所で、パウロは牢屋につながれ、明日をも知れぬ身でありながら、「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストの素晴らしさが現れること」を、切なる願いとして語っています。これは決して安っぽい言葉ではありません。死に直面してもなお、彼の内側の火は激しく燃えていたのです。
私たちも、このパウロの情熱を自らのものとするために3つのことを確認しておきましょう。
1. クリスチャンとして…いつも大胆に証ししたい!
パウロは牢屋に入れられ、裁判の結果次第では殺されるかもしれない状況にいました。しかし、彼は「どういう場合にも恥じることなく、今も大胆に語りたい」と願ったのです。臆病になって隠れたり、不安におびえたりするのではなく、イエス様の使徒として「大胆」という二文字を心に刻み続けていました。
私たちも、日々の生活の中で、伸びやかに、生き生きとイエス様を証しする「大胆さ」を持ちたいと願います。
2. クリスチャンとして…一生を貫く願いがある!
パウロには「生きることはキリスト」という、一生を貫く重みのある願いがありました。私たちの歩みも、単に日曜日だけ、あるいはイベントの時だけ盛り上がればいいというものではありません。毎日、教会に人が出入りし、活気にあふれ、そこに行けばキリストがいると感じられるような、いのちのある歩みを目指しましょう。
あなたの内側に、天国にまでつながる願いがあることを喜ぼうではありませんか。
3. クリスチャンとして…キリストの素晴らしさが現されてほしい!
私たちの目的は、自分の清さや立派さを見せることではありません。「イエス様を信じるってすごい、素晴らしい」という恵みが現れ出ることです。
私が小学校4年生の時、バザーで一生懸命ホットサンドを作って仕えたときも、今の私も、願いは変わりません。私たちの小さな手であっても、そこに心を込めれば、キリストの栄光を現すために用いられます。
あなたのチャレンジを通して、イエス様の愛が輝き出るのです。生きるにしても死ぬにしても、私を通してキリストの素晴らしさが現れますようにと祈りましょう。この切なる願いを握りしめ、共に歩みましょう。
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