不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(95)
※ 前回「イエスの遺体は盗まれたのか(その1)」から続く。
子どもの頃(10歳くらい)にイエスの十字架から復活に至るまでを聖書で読んだことがあった。正直言って怖くなった。その理由は今も謎のままだ。イエスは復活したのではなく、誰かがその遺体を移動したのではないか、そう考えるのは時のユダヤ指導者だけではない。現代人にも共通している。驚くべきことにそう考えているキリスト教徒もいる。
マタイ福音書によると、復活したイエスを前にした弟子たちがひれ伏したと書かれている。そして驚くべきことに「しかし、疑う者もいた」と添えられている。若かりし頃はこの一文を見て何か慰められるような気がした。ひれ伏しながら疑っているというこの何とも中途半端な不安定さが気に入っていた。疑うならひれ伏すなということになるのだが、しかも、復活のイエスを目の前にしてなお疑うというのは驚きでもある。
誰もが復活のイエスを目の前にして疑うなんてあり得ないと思うだろう。われわれはそう簡単に復活のイエスにお目にかかることはない。絶対にないとは言えないが、ないとした方がよい。では、私自身にも問うが、復活のイエスを目の前にしてなお疑わないだろうか。
さて、復活の日、朝早くイエスの墓を訪ねた婦人たちは、イエスの「遺体」に香油を塗るのが目的だった。遺体に香油を塗る行為にどのような意味があるのかは勉強不足でよく分からない。もちろん塗油は魔法ではないので、そのこと自体に物理的な意味はないだろう。婦人たちが香油を持ってイエスの墓に行ったと書いてあるのはマルコとルカであって、マタイとヨハネにはその記述がない。つまり、「香油」そのものが絶対的に大切というわけでもなさそうだ。
おそらく最も重要な点は、婦人たちはイエスが葬られて「いる」墓に行ったということである。しかし、実際にはそこは既にイエスが葬られて「いた」墓なのだ。婦人たちはイエスの墓で「十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)と語る若者の声を聞いた。そう告げられた婦人たちは私と同じように驚きつつも恐ろしくなって誰にも何も話さなかった。子どもの頃に聖書を読んで恐ろしくなった私自身と重なる。
誰にも話さなかったが、誰もがやがて気付くことになる、それは「イエスの墓は空っぽ」であるという事実だ! ある人は、誰かがイエスの「遺体」を持ち出したと言い出すだろう。つまり、イエスは死んだままになる。またある人は「イエスはかつて話されたように復活」したと言うだろう。さらにある人は2千年を経てもなお「私」の心が揺れ動いていると言うだろう。
私はこのコラムを書きながら、ある人のことを思い出している。病める息子のためにイエスのもとへ来た父親である。彼はイエスに「もしできますなら、私どもを憐(あわ)れんでお助けください」と懇願したが、イエスは彼に「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」と言ったのである。すると父親は「信じます。信仰のない私をお助けください」とすがった。この言葉を聞いてイエスは子どもを癒やされたのだ。
さて、父親は何を信じたのだろうか。そして何を信じられなかったのか。どうして「信仰のない私を」と言えたのか。もうそんなことはどうでもよいのかもしれない。「神には何でもできる」とイエスは言われたのだ。それを聞いたら、信仰のないことくらい大したことではないように思える。信じない者を救えるのもまた神なのかもしれない。
「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にあるものに命をたまえり」(正教会復活祭のトロパリ)。十字架はキリストの勝利であり、同時に「死が滅ぼされた」場所でもある。イエス・キリストは十字架にとどまり続けないし、朽ち果てていく遺体でもない。キリスト教会には聖人の遺物はあっても、イエス・キリストの遺物はない。それでも私たちは教会に集い続けているのだ。ハリストス復活。実に復活。(終わり)
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