今年の受難週は、棕櫚の主日である3月29日から始まります。4つの福音書は全て、受難週、そしてイエス様の十字架とそれに続く復活がクライマックスの構成になっています。
使徒パウロはこう言いました。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
キリストの十字架には、驚くべき真理が詰め込まれています。今回はその一端を、聖書ギリシャ語を通して見ていきましょう。
共観福音書では、十字架上の主イエス様の場面から百人隊長の告白まで、マタイ27章35〜54節、マルコ15章25〜39節、ルカ23章33〜47節に書かれています。
「十字架上での7つの言葉」など、さまざまな角度からこの箇所を見ることができます。ここでは、ギリシャ語動詞の未完了形の使用に注目することで、この3カ所で、日本語訳では見逃しやすい視点を提供し、キリストの十字架上での勝利のしるしに光を当てていきましょう。
A. 十字架上で展開される霊的戦いの頂上決戦
この箇所には、十字架にかけられたイエス様を冒瀆(ぼうとく)し、あざけり、悪口を浴びせかける3つのグループの人々──①道行く人々や民衆、②祭司長や律法学者たち、民の長老たち、③十字架にかけられた犯罪人たち──が出てきます。
①道行く人々や民衆を例にして、マタイ27章39節の原文のインターリニアを下に示します。

ἐβλασφήμουν(ブラスフェームン)は、文法解析ではβλασφημέω(ブラスフェーメオー)の直説法・未完了形・能動態・3人称複数です。この語の意味は「名誉と恥に重きを置く社会において特に敏感な問題。軽蔑的に話す、誹謗する、罵倒する、中傷する。超越的または関連する実体に関して誹謗する、冒瀆する、不敬に/不遜に/軽んじて話す」です。
未完了形は、過去における繰り返しや継続、連続の動作を表現するテンス(時制)なので、「しきりに冒瀆した」「冒瀆し続けた」「繰り返し冒瀆した」と訳すことで、その情景を浮かび上がらせることができます。
②の祭司長や律法学者たち、民の長老たちの場合も同様です。

ἐμπαίζοντες(エンパイゾンテス)は、「ἐμπαίζω(エンパイゾー):嘲弄(ちょうろう)にさらす、嘲笑する、からかう、あざける(言葉と行為で)」の現在分詞・能動態・主格・男性・複数で、自分たちの方から主体的に、あざけり、嘲笑し続けて、その具体的な言葉として次の「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27:42)と言い続けたことが、ギリシャ語動詞λέγω(レゴー)の未完了形ἔλεγον(エレゴン)によって示されています。
紙面の関係で、③はギリシャ語動詞の部分だけを示します。それは、ὠνείδιζον(オーネイディゾン)で、ὀνειδίζω(オネイディゾー)の直説法・未完了形・能動態・3人称複数です。その意味は、バウワーのギリシャ語辞典で、「他者を軽蔑するように欠点を見いだすこと、非難する、ののしる、あざける、辱める方法として侮辱を浴びせること」としています。
まとめると、①道行く人々や民衆、②祭司長や律法学者たち、民の長老たち、③十字架にかけられた犯罪人たちから、相当の時間、冒瀆、あざけり、嘲笑、非難の言葉を浴びせかけられていたのでした。祝福ではなく、呪いの言葉の集中攻撃を受け続けておられたのです。
主イエスは、受肉する前には「イザヤがイエスの栄光を見た」(ヨハネ12:41)と語られているように、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:3)というお方であり、イザヤ書6章1〜4節に書かれているように、セラフィムたちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と賛美していたお方です。また、受肉のときには、天の軍勢が総動員して「天では神に栄光、地では御心にかなう人々に平安あれ」と賛美していたお方です。
十字架の上での中傷、ののしり、冒瀆の言葉の矢が立て続けに放たれたときは、まさに「十字架上で展開される霊的戦いの頂上決戦」ではないでしょうか。この戦いで、言葉の矢の背後にいるのはサタンで、最終的に求めていることは「お前が神の子なら、十字架から降りて、自分を救え」でした。荒野の誘惑で使った手口をここでも使ったのです。
B. 十字架で発する勝利の言葉
十字架の上で、主イエス様は何を思い、どんなことを考えておられたのでしょうか。ルカ23章34節に「十字架上での7つの言葉」の最初の言葉が出てきます。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
ギリシャ語インターリニアで原文を表記するとこうなります。

ギリシャ語動詞λέγω(レゴー)の未完了形ἔλεγον(エレゴン)によって、主イエスは1回だけでなく、何度も「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言い続けたことが示されています。動詞の未完了形は、過去における継続、繰り返しの動作を表すからです。
主イエスはこう教えられました。
あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:28)
また、使徒ペテロはペテロの手紙第一2章23節でこう書いています。
(キリストは)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(Ⅰペテロ2:23)
ヨハネによる福音書での受難の場面には、至る所に栄光の光が差し込んでいます。
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(ヨハネ19:28、新改訳2017)
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(同19:30、新改訳2017)

Τετέλεσται(テテレスタイ)は、τελέω(テレオー)の直説法・完了形・受動態・3人称単数です。完了形は、この事実の結果が撤回不可能であり、今も続いていることを示しています。
このギリシャ語は、バウワーのギリシャ語辞典では「①活動または過程を完成する、終える、完了する。受動態:終えられる、終わる、完成される。②義務または要求を実行する、成し遂げる、果たす。③支払うべきものを支払う」と説明されています。
ヨハネの福音書では、「イエスが父なる神の御心、働きを成し遂げる、完成させる」での用法がよく使われているので、①から③までの意味が包含されていると理解することができます。その中には、ヨハネ16章33節「わたしはすでに世に勝ったのです」も含まれています。
この「完了した」(新改訳2017)は、口語訳では「終わった」、新共同訳・協会訳・フランシスコ会訳・岩波訳では「成し遂げられた」と訳されています。
C. 十字架上での勝利のしるし(簡潔提示)
- 犯罪人のイエス様の擁護と信仰告白(ルカ23:39〜43)
- 神殿の幕が裂かれたで始まる5つの神的受動態「ディバインパッシブ」(マタイ27:51、52、①幕が引き裂かれた、②地が揺り動かされた、③岩が裂かれた、④墓が開かれた、⑤聖徒たちのからだがよみがえらされた)
- 百人隊長の告白(マタイ27:54、マルコ15:39、ルカ23:47)
付録:アウグスティヌスの言葉
彼が死んだのは、彼の死によって死を殺すのが好都合だったからである。神が死んだのは、人間が死を見ることがないように、一種の天の契約によって交換が行われるためである……何という交換だろうか。(Augustine, Serm., 30[80].5.351)
聖徒たちへの適用
- 赦しの力
- 継続的告白と宣言の力
- 徹底的信頼の力
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