終末の教えを強調するルカによる福音書の中で、エルサレムに上る途上での主イエスの説教は、今の私たちに意識の覚醒と、これから起こることへの備えを自覚させます。主人の帰りを待つしもべの例えの文脈の中で、主イエスはこう言われました。
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」(ルカ12:49)。この箇所から、主がこの世に来られた目的の一つは「火が燃えている」ことであることが分かります。
ところで、主が思い描いている火が燃えている光景とは、どんなものでしょうか。はっきりしていることは、ここでの「火」とは、自然界で見られる山火事や災害による火事ではなく、聖霊の「火」であると断言できます。
それは、バプテスマのヨハネの「私のあとから来られる方は、聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」や、聖霊に満たされた主イエスの働き、そして、復活後の使徒たちへの約束、聖霊降臨によるペンテコステの出来事から始まる福音宣教の歴史から、明らかであると思います。
使徒たちの宣教、使徒教父時代と続くローマ帝国での福音宣教の展開から、今日に至るまでの教会の宣教の進展は、聖霊の火の燃えるさまとして主イエスの思いの中にあることを覚え、さらに聖書を深読みしていくならば、主の再臨直前の、聖霊の火が燃える最後の光景を想像する道が開かれるように思います。
多くの日本人には必ずしも知られていませんが、V・サイナンの著書『The Century of the Holy Spirit(20世紀は聖霊の世紀)』(邦訳なし)で書かれている事実や、H・コックスがベストセラーとなった教会の衰退を示す『世俗都市』を書いた後、自分の理解が間違っていたことを悔い改めて、『Fire From Heaven(天からの火)』(邦訳なし)を著したこと、そして、南米やアフリカ諸国における宣教が今も、聖霊の火によって歴史的な進展を遂げているといった事実があります。
一方で、主イエスの再臨の前に起こると預言された、戦争、飢饉、疫病、偽教師、偽預言者の出現などは、今も現在進行形で起こっています。他方、預言者ヨエルによって「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と語られた預言がペンテコステの時以来、継続的に成就して、これから注がれることを待ち望んでいる人々の希望となっています。
プロテスタント宣教170年の日本で、クリスチャン人口が1パーセント以下の現状は事実ですが、日本で聖霊の火が燃えている光景は、ザビエルの宣教時代と、第二次世界大戦後の一時期に見られました。当時、日本の人々が霊的に飢え渇き、田舎の小学校でも、体育館に入り切れず、校庭の木に登ってキリスト教の説教者の話に耳を傾ける人々がいたとの話を聞いたことがあります。
神がどのような偉大なことをなさるのか期待しつつ、祈りに励む聖徒たちへの励ましになる御言葉の一つに、ローマ人への手紙12章11節の「霊に燃え、主に仕えなさい」があります。この勧めは、救いに関する偉大な教理を展開して、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)と感極まって発した後の、信仰者への実践的勧めの部分12〜15章、特に、命令と勧めで埋め尽くされている12章の勧めの一つです。
「霊に燃え」は、聖霊によって燃やされることを意味し、文法的に現在形能動態複数分詞の命令的用法です。このことは、第一に、現在形なので、繰り返し燃える、継続的に燃える、連続的に燃えることを意味しています。どんな妨害、攻撃、無視、無関心、挫折、困難があっても、それによって諦めるのではなく、またやり直して、また立ち上がって、また思い返して、燃える、燃え続ける、燃えて燃えて燃え続けるようにと勧めています。
第二に、能動態なので、自分の意思を働かせ、自分が主体的になっていく動作を表しています。誰か他の人ではなく、まず自分が意思を働かせて、燃えることです。周りの空気を読んでの行動ではなく、救いがそうであるように、自分の意志で信仰を働かせて、燃やすのです。もし、燃えていないのに気付いたなら、燃えている誰かに近づいて火をもらい、燃えるように自分で行動を起こすことです。これが、能動態が示していることです。
第三に、複数形なので、単独行動ではなく、複数での行動が勧められています。教会の交わりの中で共に燃えることを求める仲間や、燃えている聖徒たちと一緒に過ごして互いに燃えていくことによって、志を同じくするグループで燃えるようにとの勧めです。
ところで、「燃える」とは何でしょうか。この語は、ギリシャ語で「ゼオー」です。AD1世紀のコイネーギリシャ語では、「水が沸騰する音から、水を沸かす、沸騰する」を意味し、生活用語として、家庭、市場、浴場などで一般的に使われていました。スープ・煮込み料理が煮立つ、湯気が立ち上がる状態描写を表す基本動詞でした。
そして、感情を体の熱で表すのが普通で、そこから、怒りが煮えたぎる、愛情が燃え上がる、熱意が沸き立つといった広い意味で使われています。また、「醗酵する、泡立つ」の意味でも使われています。そこから、「引き立てる、熱心である、エキサイトする、火がついている、燃えている」を意味するようになりました。
新約聖書に出てくるもう一つの例が使徒18章25節でのアポロについての記述です。彼は、聖書に通じており「主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」。彼はこの時点では、聖霊についての理解と体験がなかったので、プリスキラとアクラに、もっと正確に神の道を説明してもらいました。
次に、霊に燃えるための実際的な方法は何でしょうか。ここでは、多くある中から3つ提示させていただきます。
1)使徒パウロは、ローマ12章の命令と勧めを、選択科目ではなく、必須科目として私たちに提示しています。ですから、そこでの命令と勧めを本気で実行する決心をして、実行しようとしている人は、既に火がつけられている人です。御言葉を本気で学び、実行しようとする人々は、聖霊によって既に燃え始めている人です。神に自分をささげる決心をして、自分が変えられていく過程の中で、内側で泡立つ何かを感じているはずです。
2)霊に燃えることを真剣に求める人は、過去のキリスト教の歴史から学び、そのヒントをつかんで今の時代に生かす道が開かれています。2千年の教会史には、そのようなヒントが満載されています。ローマ帝国の迫害下での宣教の進展、堕落した中世の教会の中から彗星(すいせい)のように現れた聖フランチェコ、ルターやカルバンによる宗教改革、ウェスレーによるメソジスト運動、ウェールズのリバイバル、20世紀初頭のアズサ通りから始まったペンテコステ運動、それに続く後の雨の運動、1994年のトロントブレッシングなど、聖霊の火が燃えている記録、証しなどに触れることで、心が燃やされてきます。今は、ネット検索、AI活用などで、誰でも安価でこれらの情報に接することができます。今すぐ、チャレンジしてはいかがでしょうか。
3)聖書のより深い学びです。ルターの宗教改革の原点は、聖書の原典からの学びでした。聖書は神の霊感によって書かれています(Ⅱテモテ3:15)。翻訳の限界を突破して原典に触れ、原語の意味、文法的意味合い、当時の用法に照らされるとき、エレミヤのような感覚を注入されることを体験します。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20:9)
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