
イエス・キリストは世を照らす光として来られた
クリスマスの喜びは、イエス・キリストがこの世に救い主として来られた喜びです。
「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)。そして、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:5)の「闇は光に勝たなかった」とは、それまでこの世は、闇が光を打ち負かす矛盾に満ちた世界であったことを物語っています。
バプテスマのヨハネは救い主へ引き継ぐ最後の預言者
バプテスマのヨハネは、天使の御告げによってイエスより半年先にこの世に生まれました。彼はイエスに先立ち、「荒れ野で叫ぶ者」として、「主の道を備え」、その「道を整える」使命を与えられました。彼は罪の赦(ゆる)しを得させるために、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を人々に授けました。
「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(ルカ3:15)のです。しかし、当時のユダヤを統治していた王であるヘロデが、弟の妻であったヘロデヤを自らの妻としたことをヨハネが責めると、ヘロデはヨハネを捕らえ、投獄しました。そして、ヘロデヤは娘のサロメを利用してヨハネの首をはね、殺してしまうのです。これが闇の勢力です。現実世界では闇の力が強く、神の正義が通らないのです。
しかし、イエスは全人類の救い主として罪を贖(あがな)い、闇に打ち勝ち、死より復活し、人々を闇の世界から光の世界へと救ってくださる道を開いてくださいました。この救い主イエス・キリストが、幼な子としてお生まれになったことを、クリスマスの喜びとしてお祝いしましょう。
マタイとルカのイエスの誕生物語は別々に記された
イエスの誕生物語は、マタイとルカそれぞれの福音書に記されています。両者とも、いいなずけであった母マリアとその夫ヨセフを紹介しており、イエスがベツレヘムでお生まれになったという点は共通しています。しかし、マタイはユダヤ人の立場から、ルカは異邦人の立場から、それぞれ別の資料を用いてイエスの誕生物語、つまりクリスマスの物語を含めた福音書を執筆しており、それぞれ大体AD80年ごろに成立したとされます。
マタイによる福音書では、天使がヨセフに現れ、いいなずけのマリアの出産を告げます。そして、東の国の占星術の学者たちがヘロデと謁見し、祭司や律法学者からベツレヘムで生まれるとの情報を得て、誕生したイエスを礼拝し、贈り物を届けます。さらに、学者たちがヘロデを避けて帰ったこと、マリアとヨセフ、赤子のイエスは一度エジプトに逃れ、ヘロデが死んだ後にナザレに住んだことが書かれています。
ヘロデはBC4年に亡くなっていますので、イエスの誕生はBC4〜7年の間と推定されています。マタイによる福音書では、イエスの誕生を知り祝ったのは、この東の国の学者たち以外にいません。今ではこの日は、1月6日と教会暦で定められています。
一方、ルカによる福音書では、バプテスマのヨハネの誕生がまず語られ、いいなずけのマリアとヨセフは既にナザレに住んでおり、そこに天使が現れ、出産を告げます。マリアとヨハネの母エリサベツが親戚同士であったことも明らかにされ、マリアの美しい賛歌が歌われています。また、旅をしてベツレヘムに来たとき、マリアは月が満ち、宿る場所もなかったので、家畜小屋でイエスを生んだと記されています。
そして、夜に野宿していた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生が告げられます。羊飼いたちは、天の大軍の賛美を聞き、救い主が飼い葉桶(おけ)に寝かせられている家畜小屋を探し出し、お祝いをしました。その不思議な話は人々の間に広まりました。マリアは1週間後に赤子をイエスと名付けて割礼を施し、清めの期間を経てエルサレム神殿へと出かけます。マタイとは全く対照的な、平和で穏健なクリスマス物語が描かれています。教会暦では、このクリスマスは12月25日と定められました。
ここで学ばなければならないことは、イエスの誕生物語は、マタイとルカがそれぞれ別の資料を用いて付け加えたということです。つまり、クリスマス物語は、最も初期に書かれたマルコによる福音書では用いられなかった資料を基に、新しく付け加えられたものなのです。
初代のクリスチャンは、同胞のユダヤ人から迫害を受けただけでなく、異邦人からも迫害を受けました。特に皇帝ネロの時代には、ローマの大火を起因とする3年半(AD63〜)の猛烈な迫害が起こり、多数の殉教者が出ました。それでも彼らは信仰を失うことなく、耐え抜いていくのです。
ですから、信仰を守り通した人々は、イエスの十字架の贖罪死と、イエスは復活した救い主であるという信仰の観点から、このクリスマス物語を読みました。クリスマス物語は、このような視点で読まなければ本当の意味を理解できません。ダビテの出身地ベツレヘムにおけるこの赤子の誕生は、待望の救い主の出現なのです。
マタイはそれを、闇の権力を照らす赤子のイエスとして描き、ルカはそれを、天の大軍が「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美する中、飼い葉桶に眠る赤子のイエスとして描いたのです。
キリストの誕生がクリスマスとして祝われるようになった意義
冒頭に記しましたように、闇に打ち勝ったキリストを信じる共同体として、教会は次々と迫害を受けながらも宣教活動を広げ、AD313年にはローマ帝国からキリスト教の公認を勝ち取ります。そして、AD354年には教皇リベリウスによって、12月25日がクリスマスとして制定されました。
それまでは、12月25日には殉教者をしのぶ記念礼拝が行われていたとされます。殉教者をしのぶ日から、主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの日となりました。マタイとルカそれぞれの福音書に記されてから250年後に、クリスマスの物語を公にお祝いできるようになったのです。しかし、12月25日は、ローマでもともと祝われていた冬至祭の日と重なり、世俗的な祭りになっていく傾向もありました。
当時の教会は、現在のキリスト紀元の暦(西洋暦)はなく、ディオクレティアヌス(AD245〜313、最大の迫害時代の皇帝)紀元の暦を用い続けていました。そうした中、修道士で学者でもあるディオニシウス・エクシグウス(AD470〜544)が、新しい復活祭のサイクル表を作成するに当たり、ローマ建国後何年目にイエスが誕生したのかを計算し、そのイエス誕生の年を紀元1年と定め、その年を基準として歴史を前後に分ける方法を提案したのです。それが、AD525年のことでした。
過去の忌まわしい悪名高き皇帝の名を暦から消すためにも、彼の改訂案が採用されました。いかに迫害の時代からキリスト紀元の暦に移るまでの道のりが大変だったかが分かります。このキリスト紀元の暦は、その後何百年もかけて次第に普及していき、欧州全土で用いられるようになり、現在のように世界中に広がっていくことになりました。
一方で課題もあります。このキリスト紀元の暦は、後にその計算の基礎となる紀元1年が、ローマ建国753年目ではなく、それよりも4年ほど前であったことが判明するのです。そのため、実際のキリストの生誕はローマ建国749年目であり、現在の西洋暦でBC4年と訂正されました。ヘロデはBC4年に亡くなっていますので、これがギリギリの線となります。
しかし、マタイによる福音書には、イエスが誕生した後、ヘロデがベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を全員殺したという記事があります。イエスの誕生後、ヘロデが最短でも2年間生存したとすると、イエスの誕生はさらに2年さかのぼり、BC6年となります。
また、ルカによる福音書に記されている皇帝アウグストゥスの住民登録はBC8年ごろとされる一方、キリニウスがシリア州の総督であったのはAD6年以降とされていますから、単にイエスの誕生を4年や6年ずらして収まる問題とも言えません。イエスの誕生年に関しては、さまざまな説があり、専門的に研究されていますので、興味がある人はぜひ調べてみてください。
いずれにしましても、マタイとルカの両福音書にはこのように、イエスの誕生年に関しては大きな違いがあります。
しかし、キリスト紀元の暦を用いるようになったことは、主イエス・キリストの歴史的な出現を頂点に、人類の歴史を二分割するようになったという点で、大きな成果です。バプテスマのヨハネが旧約の時代の最後の預言者であり、新しい新約の時代がイエスによって始まったことを意味する暦となりました。
「闇は光に勝たなかった」という勝利宣言によって、神の国が教会という形で生まれ、2千年に及ぶ時を刻み、これからもこの神の国が世に与え続けられている現実を知るとき、私たちはその恩恵の内にあることを感謝せざるを得ません。
終わりに
このようにクリスマスを迎える私たちの喜びは、私たち一人一人が、そして教会が、世の光として輝き出すことなのです。また、このクリスマス物語は、キリストの十字架による罪の贖いと主の復活を信じつつ、それを忍耐をもって信じ続けた人々が書きつづった後世へのメッセージでもあるのです。そして、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:26)は、私たちの救い主からのメッセージともなり得るのです。
どうぞ主に祝福された恵みのクリスマスと新年をお迎えください。
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