2025年12月15日15時36分

綱渡りのような人生 菅野直基

コラムニスト : 菅野直基

信仰の有無や質は、物事が順調な時には見えてこないことがあります。ところが、問題に直面したり、多忙になったりしたときなどに、本当の姿が現れます。神様は、その人の成長度合いに応じて、対応を変えられます。十把ひとからげではないのです。

信仰を持ったばかりの人には、祈った途端に問題が解決したり、祈った途端に病気が癒やされたり、目に見える形で神様が働いてくださることがよくあります。その人の信仰を育てるためです。人間に例えるならば、母乳であったり、離乳食です。

しかし、成長に応じて、かたく、栄養価の高い食べ物を与えられます。祈っても、すぐに問題が解決せず、神が御顔を隠されて、神を信じることが難しい状況に置かれます。信仰がない人は、すぐに神を信じられなくなります。教会を離れ、世の中の生活に戻ってしまいます。

信仰がある人にとっては、それが神様のテストであり、信仰を育ててくださる神の愛だと分かるので、神の御顔が見えなくても、それでも神様を信じ、信仰を捨てることはありません。むしろ、信仰が強められ、神様を信頼しながら前に進んでいきます。

もちろん、信仰が強い人も信仰が弱い人も、同じ弱さを持った人間です。だから、不安になりますし、苦しくなります。しかしそれでも、信仰を持っている人は神を否定することができないのです。

私は、のうのうと楽観的に生きているように見られることがありますが、それは信仰の結果です。毎日激しい戦いがあり、自分の弱さに直面し、神様に祈り、神様に頼りながら、一歩一歩歩んでいます。

厳しく激しい試練がやって来ると、「神様に委ねます」と祈っても、ナイアガラの滝にロープを張って、綱渡りをしているような感覚になることがあります。

昔、ナイアガラの滝で本当にロープを張って綱渡りをした人がいました。多くの人が固唾(かたず)をのんで見守り、渡り終えたときには大歓声が起こりました。そして「今度は、誰かを背負って渡りたいと思います。誰か私の背中に乗ってもらえませんか?」と言うと、皆、下を向いたり、目をそらしたりしました。

一人の男の子が手を上げて「はい。僕が乗ります!」と言いました。渡り終わったときに、この子どもに声をかけました。「恐くなかったの?」

「恐くなかったよ。僕のパパだもん」と言いました。子どもは、自分では綱渡りができなくても、お父さんの背中に乗ってなら渡ることができます。私は、この子の姿を想像しながら、私の天の父である神様に委ねて、主と共に生きています。

聖書の言葉と、聖書に書かれた神様を信じ、神様におんぶしてもらいながら生きていきませんか。信仰が成長すると、それだけ大きな問題や試練が与えられますが、同時に、大きな祝福も与えられます。主と共に、一歩一歩歩んでいきましょう。

聖歌588番 主と共に歩む

主と共に歩む その楽しさよ
主の踏みたまいし みあとをたどる
ひと足 ひと足 主にすがりて
たえず たえず われは進まん

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菅野直基

菅野直基

(かんの・なおき)

1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。

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