世界のキリスト教会は、諸宗教や無神論者たちと共存する中で、迫害や追放、殉教に遭遇し、苦難を受けてきた。今回は東方教会史における迫害、殉教を紹介する。
1. 唐代の大秦景教徒の迫害と追放、殉教
ペルシアから来唐した大秦景教徒たちは638年、太宗皇帝の宣教認可を受け、宣教を始めた。彼らの言語はシリア語であった。大秦景教流行中国碑には、道教や仏教徒から迫害を受けたとある。やがて武宗皇帝の845(会昌5)年、宗教弾圧で信徒たちは国外追放に遭い、指導者たちの多くは殉教した。
景教碑は土の中に埋められ、生き残りをかけた信徒たちは隣国の中央アジアのキルギス、モンゴル方面、福建省の港町、北京の山岳に安住を求めた(『資治通鑑』第248巻・唐紀64に、僧は還俗、外人は遠くの地に送るとある)。
878年以降の黄巣の大乱で、その軍は福建などに南下し、イスラム商人やユダヤ商人らを殺害した。この時に、景教徒たちも含まれていたであろうと考える。この時期を境に、中国内地での大秦景教の資産は失われ、宣教は中止、名も廃止した。
宋代を経て、元代には也里可温(意味は一説に福音教、また王の力)教と改称して活動していく。北京で発見されたシリア語文書の中に「正しき殉教者たちよ・・」と書かれた13世紀(?)ごろの一文がある。
2. シリア語話者の東方諸教会の分裂、形成と発展
5世紀末に、ギリシア人の東方教会に対する敵意から、東方教会信徒たちはペルシアや各地に逃げた。そのことから、シリア語話者の中に、彼らの文化の違いから、ウルファの東西で激しい争いが起き、分裂。シリア語の発音、表記体系、語彙(ごい)の違いなどが生じたが、基本的に違いはない。彼らの境界線はユーフラテス川で、これが東西の違いを引き起こした。
西方書体のセルトー書体(セルトーとは、引っかきの意味)は、主にトルコの地のマルディン他で話され、各地のシリア正教会(スリヨーヨ)やマロン派教会の典礼式で使われている。

東方書体とエストランゲロ(丸いの意味)書体は、カルデア教会、アッシリア東方教会で使われている。ここから、中央アジアや中国(635年)へと宣教がなされた。現在、東と西のシリア語話者たちは、世界の各地で継承している。古くは、南インドのシリア語による礼拝式で使われている。
イスラムは、シリア語からアラビア文字のガルシューニ文字を作り、コーラン(クラーン)を執筆し、発展させた。
3. トルコ東南の古都市ウルファにある諸教会の迫害と追放、殉教
ウルファ(かつてギリシア語でエデッサと呼ばれていた。ウルファはウルハイの派生語)において、十字軍国家が1098年に設立。エルサレムとアンタキア(アンテオケ)を占領し、イスラム教徒のほぼ全員を虐殺したことへの報復が起きた。
当時のウルファの人口のほとんどが、東方教会信徒であった。1031年にはビザンチン帝国の支配になったが、87年にはイスラム教徒のセルジュク・トルコに奪われ、98年には解放されたものの、総督がギリシア正教徒だったことから、当時の教会とは信仰と教理で相容れない状態が続いたので、政情は不安定となった。
1144年にトルコの領主のザンギー(1085〜1146)によってウルファは包囲され、1カ月で陥落。しかし、ザンギーは46年9月に暗殺された。息子のザンギーは、ウルファを支配し、ここの男性信徒の全てを殺害、女性と子たちを奴隷にした。
ウルファ陥落のニュースは欧州中に広まり、第2回十字軍の計画を考えたものの、ウルファを東方教会の支配に戻すことができなくなった。その後、アラブ、トルコ、モンゴルなどの国の支配者が入れ替わり、オスマン帝国の手に落ちた。
1922年にオスマン帝国が滅び、トルコ共和国が建設されるまで、ウルファはオスマン帝国の都市であり続けた。
1299年に設立され、1922年に滅んだオスマン帝国は、トルコのシリア語話者たちの存在を脅かし、帝国全体で大規模な弾圧を加えた。シリア語話者たちはこの時期を「剣の年」と呼んだ(1915年は「剣の年」と呼ばれるほど迫害と虐殺が続き、村は住む者がいなくなり、教会堂や修道院は破壊された。彼らは集団脱出してシリア、レバノン、イラクなどへ移住。さらに南インドや北米、オーストラリア、欧州各地にも移住し、神の言葉としてのシリア語を継承し、礼拝している)。
1914年の第一次世界大戦時、ウルファはオスマン帝国の一部で、アルメニア人は人口の約40%を占め、アッシリア人信徒も大勢いた。翌15年には、アルメニア人信徒に対する迫害と殺りくから人口は激減し、アッシリア人信徒たちもその犠牲となった。ウルファで殺され、捕らえられた信徒たちは、車や徒歩でシリア砂漠に送られ、その途中で死んだ者も多く出た。東に約100キロほど離れた砂漠の町ラス・アルアイン周辺の強制収容所にも送られた。
帝国全体では、この期間に約150万人のアルメニア人と約30万人のアッシリア人が殺害されたといわれている。しかし、生き延びたアルメニア人信徒、アッシリア人信徒たちは南部へ移住し、特にアレッポ近辺の都市に住み着いた。このことから、ウルファにはイスラム教徒が多くなった(著者が入ったホテルの建物は、東方教会堂の形跡が見えていた)。
1895~97年に起きた有名なハミディアン大虐殺の20年後には、東部オスマン帝国全域で大虐殺が起きた。アッシリア人信徒も標的となった。
ウルファのユダヤ人らは、ウルファリムとして知られ、数千年もの間そこに住んでいたが、南部に逃げ、その後も戻っていない。著者がこの地の教会を訪問したとき、イスラム教徒と国家の政策に刺激を与えないよう配慮し、忍耐しつつ自分たちの信仰を守りながら礼拝していた。
日の出前から始まるアラビア語による塔の拡声器から流れる礼拝(アザーン、1日に5回)を呼びかける声は、至る所に大きく響いていた。(写真は著者撮影)




(続く)
※ 参考文献
川口一彦著『古代シリア語の世界』(イーグレープ、2023年)
川口一彦著『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(イーグレープ、2014年)
川口一彦著『景教碑の風景』(三恵社、2022年)
The Rockpile Project『Glorious Urfa』(2018年)
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