ある日、親しくしているS学会信者の夫婦に、自分の証しをしました。過去や現在の試練や痛みについて、私の赤裸々な証しを聞いた2人から「それは運命よ。仕方がない。先祖の因果が子に報いられているのよ」と、想像もしていなかった言葉が飛び出てきたので、ビックリしました。
親しくしていたので、「大変でしたね、試練を乗り越えられて良かったですね」と返ってくるのではないかと感じながら話していたので、意表を突かれた感じでした。
「因果応報」や「自業自得」は、宗教の常とう句のようなものです。イエス・キリストは、因果応報を否定されました。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネの福音書9章1〜3節)
これは、親の罪が子に報いられるのではなく、親の罪をキリストが背負われ、キリストは救いで報いられる「因果キリスト報」です。ここに、完全な救いがあります。
また、聖書にはこのようにあります。
「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル書18章2〜4節)
親の罪が子に報いられるのではなく、罪の報いは本人だけが受けるとあります。ここにも救いがあります。
しかし、それとは別に「まいたものを刈り取る」という法則があります。これは自然界を見れば、当然の法則です。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔(ま)けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)
これは、神の救いが与えられても、本人の行いに応じて良い悪いにかかわらず、報いがあるということです。アブラハムの子、イサクの子であるヤコブは、年老いて目が見えなくなった父イサクをだましました。ヤコブなのに「兄のエサウです」と偽って、祝福を横取りしました。
その結果、兄のエサウから命を狙われて、親戚のラバンおじさんのところに亡命しました。ヤコブは、ラバンおじさんの次女のラケルを好きになり、「結婚したい」と申し出ると、それが許可されました。
しかし、結婚初夜に寝室にいたのは、次女のラケルではなく、長女のレアでした。ヤコブはだまされました。いくら夜でも、ラケルとレアを見間違えることはあるのでしょうか。ヤコブは、まいたものを刈り取らされたのです。
ラバンおじさんは、「この国では次女を長女よりも先に嫁がせることはしない」と必死に言い訳をしました。そして「ラケルも妻として与えるから、その花嫁料として、7年×2人で、14年間働きなさい」と、長年ただ働きさせられました。
これで終わったら、「聖書もキリスト教も、因果応報を教えているじゃないか?」ということになります。しかし、ここで終わりません。キリストは、愛されなかった妻レアの息子、ユダの子孫として誕生したのです。ここに、聖書の救いがあります。ここに、福音のメッセージがあるのです。
ヤコブの名前の意味は「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」です。ヤコブは生まれる前から兄のエサウのかかとをつかんだまま生まれました。後に、兄エサウの長子の権利を出し抜いて奪い取り、さらに、父をだまして、祝福の権利までも奪い取りました。
ヤコブは自分がまいたように、その後、ラバンおじさんとレアからだまされて、つらい14年を過ごします。このことからも、私たちのやった行いというまいたものは、この地上で刈り取らされることが分かります。
良いことに対しては良い報い、悪いことに対しては悪い報いです。しかし、その先には、悪い報いが良い報いに変えられるという救いが待っています。ピンチがチャンスに、マイナスがプラスに、ハッピーエンドに、万事益に変えられるのです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)
私たちの心構えをこの聖句のように変えていきましょう。マイナスがプラスに変えられるのは、総論です。しかし各論は、まいたものを刈り取るのです。だから、人に親切に与え、誠実に接し、良い業を行っていきたいものです。
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