
ペンテコステ、すなわち聖霊降臨日を迎えるに当たり、クリスチャンはペンテコステに起こった聖霊降臨という劇的な出来事を思い起こします。約束された聖霊が弟子たちに降り、彼らが他国の言葉で語り出すと、エルサレムに集まっていた各地の人々がその言葉を聞き、驚き、やがてペテロの説教に心打たれて悔い改め、3千人もの人々がバプテスマを受けて教会が誕生する――これはまさに、神の壮大な救いのご計画の一端であり、その成就の瞬間です。
しかし、この出来事は突如として起こったのでなく、そこには神の長いご計画と預言、約束の成就があります。ヨエル書2章28節では「わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ」と預言され、イエス・キリストも十字架の前に、また昇天前に、弟子たちに聖霊を送ると約束しました(ヨハネ16:13、使徒1:8)。その神のご計画は時を超えて成就し、歴史の中に力強く現れたのです。
弟子たちの変化と備え
ペンテコステを迎えるまでの弟子たちは、決して成熟した者たちではありませんでした。むしろ欠けだらけの弱い、また自己過信をする者たちでした。ゲツセマネの園では「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」という主の言葉にもかかわらず、眠りこけてしまいました(マタイ26:40~41)。イエスの十字架を前にして恐れて逃げ、ペテロは三度も主を知らないと言いました(ルカ22:34)。また、復活の証しを聞いても信じられず(ルカ24:11)、エマオへの途上で復活の主と共にいても、それに気付かず、霊的な目は曇っていました。預言されたことを信じない愚かさを、イエス・キリストご自身が叱責しています。
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。(ルカ24:25~27)
霊的な目が開かれて復活の主に出会うまでは、疑いと恐れと困惑の中にあったのです。しかし、復活の主と40日にわたって共に過ごす中で、弟子たちは変えられていきます。復活の主から、御言葉によって教えられ、赦(ゆる)され、愛され、導かれる中で、昇天後の10日間、彼らは祈りに専念し(使徒1:14)、聖霊の到来を待ち望む者として備えられていきました。
神のご計画への参与
イエスの昇天の際においてさえ、まだ弟子たちは「イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねました(使徒1:6)。それは政治的・地上的なメシア観に基づいた期待でしたが、主は「あなたがたの知るところではありません」と答え、むしろ「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てにまでわたしの証人となります」と語られました(使徒1:8)。
この言葉は、決してイスラエルの民族的復興そのものを否定していません。イスラエル民族は、紀元70年のローマ軍によるエルサレム破壊によって世界中に散らされますが、まさに、イエス・キリストが「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです」と言われたように、1948年に約束の地において、イスラエル国が預言の通りに1日で再興しています。
だれが、このようなことを聞き、だれが、これらのことを見たか。地は一日の苦しみで産み出されるだろうか。国は一瞬にして生まれるだろうか。ところがシオンは、産みの苦しみと同時に子たちを産む。(イザヤ66:8)
しかし、主が語られた言葉は、神の国がイスラエル民族の枠を超え、全ての国民へと向かう宣教の扉が開かれることを意味していました。
そして、聖霊降臨を待つ間、弟子たちは預言に基づいて、ユダの代わりにマッティアを使徒として選び(使徒1:15~26、詩篇69:25、109:8)、復活の証人となるべく、12使徒の在り方を整えました。
これは、弟子たちが以前のように、感情的、あるいは単に知的に反応したことではなく、聖書の預言の成就として出来事を理解し、祈りつつ進めたことです。彼らが霊的・知的に整えられ、聖霊を迎える準備がなされたのです。しかし、整えられつつあっても、彼らには聖霊の力そのものが不可欠でした。
聖霊降臨と教会の誕生
ついに約束の日、聖霊が力強く臨みました。弟子たちは他国の言葉で神の偉大な御業を語り出し、それを聞いた群衆は驚き、ペテロの説教に心を刺され、悔い改めへと導かれます。ペテロは、聖書の預言(ヨエル2:28~32)を引用し、今起きている出来事がまさに神の言葉の成就であると力強く証ししました。
ここでも、イエスの昇天後、聖霊の降臨に弟子たちが整えられていたことが明らかになっています。マッティアの選びにも見られたように、出来事を感情や限られた個人の経験ではなく、聖書の御言葉に基づいて理解するという、聖書的世界観が整えられていたのです。そして、全ては神の業であることを明らかにする聖霊降臨による世界宣教の幕開けがなされたのです。
ここに、教会の誕生があります。民族や言語の壁を超え、聖霊によって一つとされた人々の群れ――それが初代教会でした。これは単なる組織の始まりではなく、全ての国民が信仰によって救いに招かれるという、世界宣教の幕開けと教会の誕生だったのです。
今を生きる私たちへ
私たちもまた、弟子たちと同じように弱さを抱え、時に迷い、信仰の薄さに悩む者たちかもしれません。しかし、主はそのような者たちこそ整え、聖霊を注がれます。祈りに専念していた弟子たちのように、私たちもまた、祈りを通して整えられていくのです。
ルカの福音書11章13節にはこうあります。「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」。祈りは単なる願望ではなく、主の御心を待ち望み、聞き従う姿勢です。
まきストーブは火が消えかけたとしても、炉の底には小さな赤い種火が残っています。その上に乾いたまきをくべると、再び大きな炎が燃え上がります。祈りとは、この種火を絶やさず守ることです。すでに聖霊は降っており、信じる者の内におられます。目には見えなくても、私たちは祈りを通して聖霊の満たしを受け、聖霊の火が再び燃え上がることで力を受け、証人として遣わされるのです。
結びに
主の昇天は終わりではなく、再臨という希望の始まりです。そして、そのことは聖霊によって保証され、歴史を通して導かれてきました。今、私たちもまた、日々祈り、御言葉に耳を傾け、聖霊によって整えられ、力を受け、福音を証しする者として歩んでまいりましょう。ペンテコステを迎えるこの時、私たちの内にも再び聖霊の火が燃え上がることを祈り願います。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカ11:13)
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