2025年4月21日15時53分

十字架のキリストの打ち傷を忘れない 万代栄嗣

執筆者 : 万代栄嗣

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(ペテロの手紙第一2章22~25節)

桜の風情があふれる春の日々を迎え、今年も、イエス様の復活をお祝いするイースターが巡ってきました。クリスチャンの喜びの根源は、イエス様に救われ、神の子とされたこと。聖霊によってこの地を力強く歩むことができ、地上での歩みを終えたときには、天の御国で永遠に生きることができる約束が与えられていることです。この十字架と復活の喜びを受け止め、本物のクリスチャンとして、死の力さえ打ち破る主の力を頂く者として堂々と歩みましょう。

今日の御言葉の著者であるペテロはこの手紙の中で、クリスチャンの土台、模範はキリストであると繰り返し語っています。その流れの中で、イエス様が十字架にかかられた意味が記されています。この箇所を通して、その意味を確認しましょう。

1. 罪とは何ら関わりのない生き方!

イエス・キリストは人でありながら、真の神であられました。私たち人間と同じように見るのは間違いです。その誕生の経緯から生き方まで、罪や汚れとは無関係な聖いお方、真の神であり、十字架による処刑とは全く縁のないお方です。

本来ならば、自らの罪のために十字架で処刑されなければならないのは、私たちの方です。冤罪(えんざい)どころではありません。全く罪のないお方、神のひとり子としての清さを持っておられるお方です。イエスの十字架は決して起こってはならない処刑でした。その意味の深さをはっきりと知らなければなりません。

2. 人々の憎しみやあざけりを受け止められたお方!

イエス様は、人々が期待した軍事的革命家としての王にはなりませんでした。イエスに期待して熱狂していた人々は失望し、イエス様を憎み、罵詈(ばり)雑言を浴びせかけたのです。

しかし、イエス様はそれらに言い返すこともなく、全ての憎悪に愛をもって応え、受け止められたのです。イエス様は、人間の発する最大限の罪深ささえ、受け止める覚悟と大きさを持った救い主であることを感謝したいと思います。

3. 私たちの罪やけがれを身代わりとなって背負われたお方!

イエス様は自ら進んで、全人類の罪を背負われました。私たちはどんなに人を愛していても、誰かの罪を代わりに背負うことはできません。私たちは自分の罪さえ自覚し、背負うことができない、いい加減な者です。

しかし、イエス様は一人一人の最大限の、そして全人類の罪を十字架で背負われました。それができたのは、彼が神であったからです。

4. ご自身の打ち傷で私たちの罪を赦し、病を癒やされたお方!

私たちの罪を、イエス様は代わりに背負い、処理してくれました。イエス様が、病の痛みや苦しみを私たちの代わりに背負い、このお方の打ち傷によって、私たちの罪は赦(ゆる)され、魂の救いのみならず、体の弱さまで癒やされ、強められるのです。

イエス様の十字架の愛を知りたいのです。病の癒やしを十字架のイエスの御名によって祈りましょう。不幸や呪いの全てをイエス様が背負われたのですから、全ての苦しみ、病をイエスに委ねて解放されようではありませんか。彼の打ち傷によって私たちは癒やされました。この恵みを共に体験してまいりましょう。

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万代栄嗣

万代栄嗣

(まんだい・えいじ)

松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。

また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。

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