2024年9月18日10時15分

ワールドミッションレポート(9月18日):スーダン 自殺を志願した戦争孤児の変えられた人生(1)

執筆者 : 石野博

ベルナード・スワ牧師は、スーダン内戦中に難民として育った。16歳の誕生日まで、彼はずっと自殺することばかりを考えていた路上生活者の孤児だった。しかし神は、そんな彼に別の計画を持っておられたのだ。今日、彼はジュバのグレース・コミュニティー教会を率い、彼の愛する祖国を再建するために労を惜しまず宣教師たちを支援している。これはそのスワ牧師の人生の証しである。

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私は7歳まで、南スーダンで家族と平和に暮らしていました。しかし1964年、全てが変わってしまったのです。第1次スーダン内戦が私たちの村にも及びました。私たちは姉の家族とウガンダに逃げたのです。40キロ近くの距離を歩いて行かなければならなかったのですが、主要道路には兵士が配置されていたため、別の方法で国境に近づかなければならなかったのです。

ウガンダとの国境の川を渡るとき、義理の兄は、激しい激流の中、私を頭の後ろに担ぎ、赤ん坊の姪を肩に乗せ、右手で姉を引っ張ったのです。ようやく私たちはグルーの町にたどり着きました。一方、他の家族は国境近くのエレグの町に落ち着きました。私たちは離れ離れに暮らさざるを得なかったのです。

当時、難民にはテントがありませんでした。だから自分たちで小屋を建てなければならなかったのです。ウガンダ当局は、木を切るためのマチェーテと土を掘るためのくわを支給しただけでした。それらを使って、私たちは草葺き屋根の泥で作った小屋を建てて住みました。それが私たちの難民生活でした。

私が12歳になったとき、父の訃報が届きました。ウガンダ当局は、難民を国境近くに移動させるために私たちを強制的に移動させていました。父は重度のぜんそくがあり、無理に移動させてはいけない体だったのですが、兵士たちはそんな父を無理やりトラックに押し込めました。その移動中のトラックの中で、父は発作を起こして帰らぬ人となったのです。

私が15歳の時、アディスアベバ和平協定が締結され、帰国の希望が見えてきました。それで母は、祖国に帰る時が来たと判断したのです。兄たちは、先にスーダンに戻って、私たち家族のために小屋を建ててくれていました。私の仕事は、母が帰国の移動手段を探している間、家族の所持品を見守ることでした。しかし状況は混沌としており、祖国への帰還は遅々として進まなかったのです。

痺れを切らした母は、たとえ40キロ近くを歩いたとしても、一人で国境を越えて行く方が早いと判断しました。しかし、そんな母を悲劇が襲ったのは、母がスーダンに入る国境の川を渡るときでした。母は、茂みに隠れていたならず者の兵士たちに捕まってしまったのです。

彼らは母にひどい暴力を振るってレイプし、彼女が死んだものと思って放置して去っていったのです。ところが、私たちを襲った二重の悲劇は、私たちはそんな瀕死の母に気が付かないでいたことなのです。スーダンにいる兄弟と姉妹たちは、てっきり母は私と一緒にいるものと思っており、逆に私は、母は彼らと一緒にいるものと思っていたのです。そのため母の安否確認が遅れてしまいました。

数週間後、私たちは茂みの下に隠された母の焼身遺体を発見したのです。自責の念に駆られた私の精神は粉々に砕け散ってしまったのです。(続く)

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■ スーダンの宗教人口
イスラム 61・4%
プロテスタント 14・8%
カトリック 10・7%
土着宗教 11・1%

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石野博

石野博

(いしの・ひろし)

2001年より、浜松の日系ブラジル人教会で日本人開拓、巡回伝道者として従事。12年より、奥山実牧師のもと宣教師訓練センター(MTC)に従事、23年10月より、浜松グッドニュースカフェMJH牧会者として従事。18年3月より、奥山実牧師監修のもと「世界宣教祈祷課題」の執筆者として奉仕。23年10月より「世界宣教祈祷課題」を「ワールドミッションレポート」として引き継ぎ、執筆を継続している。