2024年6月7日14時51分

人の醜い醜態、その性質が自分の中にもあると知ることが成長につながる 菅野直基

コラムニスト : 菅野直基

牧師をしていると、人の醜い本質をいや応なしに見せられます。がっかりし、失望させられることもあります。しかし、その人を裁く気にはなれません。なぜなら、その人の汚い性質を、自分の中にも見るからです。

毎日聖書を読み、祈ることを心がけていますが、その中で神様が私の本質に光を当ててくださり、鮮明に見させてくださいます。預言者イザヤは、イスラエルの醜い醜態を見て嘆き、罪を糾弾しました。しかし、主の聖さの前で、自分も同じ汚れを持っていることに気付かされました。

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖(あがな)われた。』」(イザヤ6:1〜7)

イザヤは、自分の汚れを知ったとき、「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ6:5)と叫びました。その時、主の火がイザヤを清め、贖い、不義が除かれました。人が成長するためには、自分の本質を知らされるとともに、「そのままではダメだ!」と感じて、神に救いと助けを求める心が必要です。

「クリスチャンはしょせん罪人なのだから、ありのままを認め、心のままに生きたらよいのだ」と、「ありのまま」と「わがまま」を取り違えてしまう人に会うことがあります。「悔い改めて、神に立ち返りましょう」と牧師が語っても、「律法主義だ!」「頭が固い!」などと反発して、生き方を変えない人を見ることがあります。

その性質は、私の中にもあるのです。だから、安易に人を裁くことはできません。しかしだからといって、罪の中にとどまることを肯定することはできません。罪は神を悲しませ、人を傷つけ、自分を破滅に向かわせるからです。何一つ良いことはありません。

人の醜さを見て、裁いて、そこで終わってしまったとしたら、自己満足で終わり、成長は止まります。神様は恵みと愛によって、私の汚れと醜さを見せてくださり、赦(ゆる)し、清め、成長させてくださるのです。人は成長した分だけ幸せになり、祝福され、豊かになれます。そして、愛と正義を持った人に近づけるのです。

人は多くの場合、偏ってしまうのです。寛容な人は「何でもいい!」と言っていい加減になり、厳しい人は厳格になって、狭く、頑固な人になります。しかし、自分の醜い本質を知り、神の憐(あわ)れみを求め、神の赦し、贖い、清めを経験した人は、愛と謙遜な心を持って人を正し、指導できるようになるのです。

かつての私は、人の醜さを見ながら自分の醜さを知るだけで、人に注意したり、指導できない人間でした。しかし、神の光によって自分の醜さを知らされ、神に憐れみを求め、神の清めを経験した後には、優しい心で厳しい指導ができる人間に変わりつつあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:1、2)

柔和な心で人を正すことができる人になれますように。神の恵みに感謝いたします。

◇

菅野直基

菅野直基

(かんの・なおき)

1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。

■ 新宿福興教会ホームページ(メッセージをくだされば、皆さんの近くの教会を紹介致します)
■ 菅野直基牧師のフェイスブック