常々思っていることだが、キリスト教を日本で浸透させようと思うなら、絶対にハリウッド映画の紹介がいい。なぜなら、ハリウッド映画こそ「起承転結」のフォーマットを踏襲する映画であり、しかもストーリー運びに必ずキリスト教的な要素が加わっている。特にホラー映画のモンスターや悪役は、必ずと言っていいほど反キリスト的な存在である。また、普通のアクション映画やサスペンスであっても、人々に興奮と感動を与える要素として、必ず聖書的小ネタが仕込まれている。
一方、ストレートなキリスト教映画もあるが、これには二通りある。「神は死んだのか」や「パッション」のように、自分たちが「正しい」と思うことをそのまま「正しいでしょ?」と提示する作品がある一方で、単なる聖書物語の焼き直しでは面白くないと思うのか、あえてひねりや逆張りを加えてくる作品がある。
日本人にとっては、後者が厄介だ。なぜなら、聖書的知識や前提がないため、「どうしてこんな展開に?」と考え込んでしまうからだ。欧米諸国では「この流れで行くと、きっとこうなる」という予想ができ、その前提に沿った展開となるか、それともあえて王道から外れる展開となるか、ということになる。
例を挙げるなら、聖書物語の前提に沿った展開なのが、ダーレン・アロノフスキー監督、ジェニファー・ローレンス主演の「マザー!」だ。一方、聖書物語の前提を大きく外れる展開となっているのが、これまたアロノフスキー監督によるラッセル・クロウ主演の「ノア 約束の方舟」や、リドリー・スコット監督、クリスチャン・ベール主演の「エクソダス:神と王」である。
さて、本作「ノック 終末の訪問者」は、絶対に「マザー!」的作品である。聖書の「終末論」という前提なしには、本作は絶対に理解できない。言い換えるなら、終末論についての基本的な知識があれば、「だからこんな展開なのか」と理解することができるし、「なるほど、ここをあえてこう変えたのね」とニンマリできるだろう。
ストーリーは結構単純だ。しかしとんでもない。
静かな森の奥で過ごしている3人家族。娘のウェンは養女。彼女には「二人」の父親がいる。アンドリューとエリックである。母親はいない。つまり、ゲイカップルの家庭に養子縁組でもらわれてきたのである。ただし、この設定に他意はない。M・ナイト・シャマラン監督は、「本作は現代の聖書物語である」と述べているが、古めかしいコスチューム劇ではなく、現代の話だと観客に認識してもらうためにあてがった「現代的な家族構成」でしかない。ここを深読みすると、話がややこしくなると思われる。
この仲むつまじく暮らす一家の元に、奇妙な武器を持った4人の男女が訪れる。彼らは一見紳士的な振る舞いで近づいてくる。しかし、彼らを不審に思ったー家の人たちが窓や扉を締め切ると、いきなり暴力的になり、窓を破り、扉を蹴飛ばして中に侵入してくるのであった。抵抗もむなしく縛り上げられるアンドリューとエリック。そして侵入者たちは驚くべきことを告げる。
「いつの世も選ばれし家族が、決断を迫られた。君たちの一人が犠牲となり、止めるのだ。世界の終末を。君たちの拒絶は、何十万もの命を奪う」
皆さん、ついてきていますか。ここで「はぁ?」「どういうこと?」となるはずである。この物語に「理解と納得」はあるのか、そんな疑問が頭を飛び交うだろう。この先は触れられないので、直接劇場でその後の展開を見ていただきたいのだが、この時彼らが語る言葉の中に、聖書の終末論が透けて見える(はずである)。
本レビューではネタバレはできないので、婉曲(えんきょく)的な表現となるが、ヒントをちりばめることはできる。まず前提として、この極限的な状況から奇跡的に脱出するすべはない。彼らが語った通りであり、それを「聖書的に正しい」と受け止める知識がなければ、本作を「トンデモ映画」として処理してしまうだろう。特に当たり外れの大きいシャマラン監督の作品だけに、「シャマランがまたやらかした!」と言って終わりにしてしまう可能性は大いにある。
しかし本作は、終末論を詳しく知っている者(これは神学者や牧師、ごく一部の信徒に限られるのが日本の悲しい現実なのだが)にとっては、かなり興味深い設定で物語が展開することになる。そもそもキリスト教の中心にある「福音」という考え方は、三位一体である神の第二格であるイエス・キリストが、全人類の罪を贖(あがな)うために、「犠牲の死」を遂げるべくこの地にやって来ることから始まる。
その後の展開は、福音書やパウロなどの手紙によって、ある程度のバリエーションはあるが、いずれにせよ「人類はたった一人の神の子の犠牲によって救われる」ことで一致している。そして、十字架で人類のために亡くなったイエス・キリストは、3日目によみがえり、天に帰る。
そしてまたいつか(この時は分からないとされている)、しかるべき時にイエス・キリストはこの地にやって来て、そして世界の人々は「最後の審判」を受け、良き存在と悪しき存在に分けられ、前者は天国へ、後者は地獄へ行く。この2つを分けるのは、「イエス・キリストを信じているかどうか」ということになっている。そして、これらが終わった後(もしくはその前に)、この世界は終わる。
ざっくり言うと、これが聖書の終末論である(本当にざっくりとした説明なので、突っ込みどころ満載であるのはお許しいただきたい)。
さて、この終末論に当てはめるなら、本作はストーリー自体が大きなメタファーとして回収されることになる。ここでは、以下に幾つかのヒントをにおわせて終わりにしたい。できることなら、半年後くらいにしっかりとした「ネタバレありレビュー」を書き下ろしたい。
- 一家は「3人」暮らしである。父親たちの間に優劣はないが、男女差を感じさせるジェンダー差別は存在しない。
- 一人が全人類の代わりに「死ぬ」ことで、世界が救われる。
- これは一家にとって「つらい決断」である。ちなみに、日本のワーシップソングの中に「父の涙」という名曲がある。その歌詞を検索してもらいたい。そこには、一人子を犠牲にする父のつらさが切々と語られている。
そして、最後のヒントとして一つの言葉を紹介したい。それは、クリスチャンたちの間で語られる「もしイエス様だったらどうするか?(What Would Jesus Do?)」という言葉である。これは、もし聖書に描かれているイエス・キリストが現代に生きていたら何をするかを考え、「イエス様と同じように考え行動すべきだ」と自らを方向付けていくための言葉である。
いかがだろうか。ぜひ本作を観終わった後、これらのヒントについて、皆で語り合ってもらいたい。すると、シャマラン監督が本作で示したかったことがきっと分かるはずだ。
映画「ノック 終末の訪問者」は、4月7日(金)からTOHOシネマズ梅田ほかで全国ロードショーされる。
■ 映画「ノック 終末の訪問者」予告編
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