2023年3月10日15時34分

保育施設における虐待はなぜ起こるのか(最終回)子育ては「神聖な業」である

執筆者 : 千葉敦志

子ども/children/kids/幼稚園/kindergarten/保育園/nursery
※ 写真はイメージです。(写真:ちゃぁみい / PhotoAC)

これからの18年

少子高齢化は、残念ながら今後も加速度的に進んでいきます。それは、出産可能な母親の数が激減していくからです。子どもを一人の大人(成人)に育て上げるには、18年かかります。仮に今年の出産数が倍増しても、この子たちが大人になるまでは最低でも18年かかるのです。その間に産業は空洞化しますし、そんな中では子どもをまるで「負債」のように見る見方も加速化していきます。

子どもは「負債」ではありませんし、「投資」でも「資産」でも「商品」でもないのです。しかし、時代や国家は、それを否定してきたことを本連載の第1回で指摘しました。現代の日本の風潮は、子育ての神聖さをあざ笑っています。そしていつの間にか、「今だけ、金だけ、自分だけ」という風潮が主流を占めているという状態になっていると指摘されます。

親たちは、「バカ親」「毒親」「子どもウザい」などの言葉に怯える一方で、必死に「良い親」であり続けようとし、わが子が「良い子」と言われるように子育てをしようとし、わが子を「優秀な子」として育てることを求めざるを得なくなっています。テレビでは「天才児」が当たり前のように出てきて、「それに引き換えわが家は・・・」と自己嫌悪にさいなまされる親が多いことも最近の特徴です。子育てをする親たちは、わが子を「負債」、あるいは「資産」や「商品」と見なし、まるで「投資」をしている気にならざるを得ない時があります。

そして、そこにサービス業化した施設が寄り添い、早期英才教育をうたいつつ子どもの個性を無視し、「出来の良い子」を求め、「出来の悪い子」を排除し続けてきました。さらにそれは、一部保護者に「出来の悪い親」という偏見を押し付けさえしました。このことを深く反省しなければなりません。

虐待は一度起こってしまえば、止めようと思ってもなかなか止まるものではありません。それは、子どもへの見方がガチガチに固まってしまうために起こるからです。またそれは、ほんの少しの「親としての傲慢さを満たす満足感」が、子ども一人一人の発達や保育システムを見失わせ、保育者や保護者の価値観を歪めてしまう相乗的な効果の結果として起こるものだからです。一つの無理解が連鎖し、虐待や子どもの死という結末につながるのです。

「良い親と思われたい」
「優秀な保育者と見られたい」
「良い施設だと評価されたい」

これらは全て、私たちの根源的な欲望であり、葛藤です。

子どもたちへの謙遜とは主を誇ること

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)

旧約聖書の創世記には、場面に応じて、この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉が何度も登場します。子どもを産み、育て、多くの家族であふれることは、私たち人間に対する神の最初の祝福だと創世記は証ししています。

子どもが生まれること、また子育ては、キリスト教のみならず、どの宗教・宗派であっても、人間の「神聖な業」であり続けてきました。フリードリッヒ・フレーベルは「子どもの本質を神的なもの」と捉え、保育論を展開しました。私は、子育ての支援職としてフレーベルの保育理論を学ぶとき、新約聖書の次の箇所を思い出します。

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖(あがな)いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(1コリント1:26~31)

フレーベルが子どもに対して感じた神性とは、まさにこのことです。また、第1回でご紹介した「日本のフレーベル」こと倉橋惣三は以下のように記しています。

子どもが帰った後で、朝からのいろいろのことが思いかえされる。われながら、はっと顔の赤くなることもある。しまったと急に冷や汗の流れ出ることもある。ああ済まないことをしたと、その子の顔が見えてくることもある。一体保育者は・・・一体私は・・・。とまで思い込まされることもしばしばである。大切なのは批(こ)の時である。批の反省を重ねている人だけが、真の保育者になれる。翌日は一歩進んだ保育者として、再び子どもの方へ入りこんでいけるから。(倉橋惣三著『育ての心』より)

子どもを育てるとき、私たちが悩んだり、苦しんだりすることは、当然のことなのです。それは、私たちが子育てをすることで打ちのめされ、恥を受け、そしてそのことによって、「成長させてくださる神」(1コリント3:7)の姿を証しすることなのです。

「子育てとは祈りだよ」

今、求められることは、早急に「保育」そのものを見直すことです。保育者も保護者も、そして国民全てが変わらなければなりません。子どもたちの個々の個性は「神の御業」であり、その子どもたちを育てることは「神聖な業」であると、しっかりと受容することが求められていることを理解しなければならないのです。

そして、今までの常識を全て見直し、それらをしっかり分析し、分担し合い、子どもの成長を神聖なものとして捉え、国を挙げて、施設を挙げて、保護者と子どもを支え、彼らに謙虚に向き合っていくことが求められています。

「子育てとは祈りだよ」と、先輩保育者が私に言った言葉を共有したいと思います。

祈りとは、自分が「いと小さき者」であることを自覚し、神の前にひざまずき、導きを信頼しつつ歩むことです。「成長させてくださる未知なる存在」を一人一人の子どもと共に証しつつ歩むことです。子育てに近道はありません。悩み、苦しむ時もあります。しかし、その時こそ、私たちとその子を背負って共に歩んでくださっている方の存在を力強く感じて歩むことが求められているのです。

子育てに関わる一人一人の上に大きな奇跡が示されていることをしっかりと胸に刻みつつ、私たちの欠けを補い、さらに用いてくださる偉大な存在を感じながら歩んでいきましょう。(終わり)

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千葉敦志

千葉敦志

(ちば・あつし)

1970年、宮城県生まれ。日本基督教団正教師(無任所)。教会付帯の認可保育所の施設長として、保育所の認定こども園化を実施。施設長として通算10年間、病後児保育事業などを立ち上げたほか、発達障害児や身体障害児の受け入れや保育の向上に努め、過疎地域の医療的ケア児童の受け入れや地域の終末期医療を下支えするために、教会での訪問看護ステーション設置などを手がけた。その後、これまでの経験に基づいて保育所等訪問支援事業を行う保育支援センターを立ち上げた。現在、就労支援B型事業所「WakeArena」を立ち上げ、地域の福祉増進を目指している。