2023年3月9日11時37分

望んでいるようには死んでもらえない(その3)

コラムニスト : 藤崎裕之

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(41)

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(41)

※ 前回「望んでいるようには死んでもらえない(その2)」から続く。

そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:59~60)

覚悟の弱さも人間の本性である

正直なところ、イエスの言葉は時に難解過ぎるのである。イエスは誰に対しても「わたしに従いなさい」と言われるのであろうか。多分、そうであろう。では、いつから従えばよいのか、と問われれば、「今」からというしかない。明日ではない。もちろん、今日の夕刻からでもない。今この時から従えと言われているのである。ならばわれわれはいかに答えることができるであろうか。

私が思うに、人間というのは「今」からということに対して覚悟がない。最後のタバコを吸ってから、最後のビール一杯を飲んでからやめようか、と思うのが人間の本性というものではないか。そのような人間に対しても私は共感を感じるのであるが、いかがであろうか。

行動から心へ

ある心理学の本を読んでいたら「心は身体がつくり出す」と書かれていた。これは、行動することと人間の心理は連動しているという意味である。笑顔が大事といわれるが、心が潤っているから笑顔になるのではなくて、笑顔を作るから心も潤うということらしい。言われてみれば、そうかもしれない。逆にいえば、眉間にしわを寄せる人は、わざわざ心を傷めつけていることになるわけである。つまり、不機嫌になりたかったら、眉間にしわを寄せればよいのだそうだ。笑顔をつくり出すのは良いとしても、わざわざ不機嫌をつくり出すというのも悪趣味である。とはいえ、誰もが思い当たることはあるだろう。

何かを信じるのが難しいのは、身体の動きを止めて、目や耳だけを使って情報を得ているからなのかもしれない。とりあえず身体を動かしてみることによって、心が変化するということを期待してもよいのではないかと思う。特に宗教についてはそのような傾向があると私は考える。

信仰とは理性運動ではない

自分自身についていえば、長い間、信仰と理性は切り離せないものであった。極端な言い方をすれば、理性によって是とされないものは信じられないという傾向が今でも強いと思っている。納得して信じることが正しいと思いがちなのだ。そういう人間にとって、身体運動から信じる心へと向かうというのは、なかなか考えられないことだ。

キリスト教にとって「従う」ということはとても重要な事柄である。「従う」ということは、心だけではなく、行動を伴うのではないかと、最近になってようやく気付き始めた。心の奥底にしまったものは、確かに神は気付くかもしれないが、その是非を教えてはくれない。本人は心の奥底には信仰がぎっしり詰まっていると思っていたとしても、それが本当に詰まっているのか、誰が保証できるだろうか。本人は気付いていない、いや気付かない。あるいは、本当は気付いているのかもしれない。そう、実は「空」だったりする。

イエスの厳しい言葉

従ったふりは良くない。もちろんである。それでもあえて言わせてもらうなら、体よく「お断り」を入れるくらいなら、従ったふりをしてでも、イエスの後を追いかけた方が良かったのではないか。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。このように言われたら、大抵の場合はOKだ。ダメだとは言いづらい。しかし、イエスはダメだと言う。イエスは鋭く見抜いているのだ。父を葬ることさえも「今は従えない」という理由にはならないのだ。何という厳しさであろうか。

イエスは言う。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。難しい。あまりにも難解な言葉である。どれほどの人がこの言葉に悩んできたことか。こちらが望んでいるようには人は死んでくれない。葬りの時は突然に訪れるのだ。今は家族の葬りに行かねばならない。それでもイエスは今も従えと言う。人はイエスと葬りの間で板挟みになってしまう。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。この言葉を聞くたびに私の心が騒ぐのだ。

まずは従ってみるのも良し

人は自分に都合が良い言葉も、都合が悪い言葉も、なるべく短く覚えてしまう。イエスの言葉には続きがある。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。ここまでがイエスが語られた言葉である。いやむしろ、続きの言葉こそがイエスの核心ではなかっただろうか。イエスは「あなたはわたしに従って、神の国を言い広めなさい」とは言われなかったのだ。イエスが言わんとしたのは、父の葬りに行っても、私に従っていることを忘れずに「神の国を言い広めなさい」ということではないかと思えてしかたがない。

われわれの都合がどうであれ、イエスは「今」から従えと言う。イエスに従っていることを忘れずに行動せよと言う。ごもっともなことである。〇〇をしてから従います、ではない。〇〇をするときも従います、でなければならないのだ。

こちらの都合に合わせて人は死んではくれない

何も人が死ぬことだけではない。そもそも世の中の諸事は、われわれにとっては都合良くはいかないものだ。それは宗教も同じことである。私の理にかなう宗教などない。私の理性に合致する教会などない。私が納得する教会儀式も、信仰作法もない。やはり何かが違っているのだ。こちらの都合に合わせてくれるものがこの世にどれ程あるだろうか。

身体が心をつくる、そういうことだってある。経験が信仰を育て上げることもある。時には行動から始めてみるというのもありなのだ。だから「今は従えません」ではなくて、「それでも今から従ってはみます」でよいではないか。もちろん「従う」といっても、人間には自ずと限界があるし、結果が散々なことはあるに決まっている。従える方法で従うのだ。たとえ、心がこもらないときがあっても、身体だけが従っているということがあったとしても、どのようにしても、イエスに従っているという事実が大事なのである。

そして何より「従う」という「行動」から、自分が思いもしなかった結果が生まれるかもしれないことを忘れてはならない。結末が明らかな事柄を目指すのは「従う」ことではない。「未知なる自分」に生まれ変わることを目指す。それこそがイエスに従うことではなかろうか。(終わり)

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藤崎裕之

藤崎裕之

(ふじさき・ひろゆき)

1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。