2022年10月31日10時54分

宗教改革で重要な役割を果たした7人の女性たち

10月31日といえば、ハロウィンを思い浮かべる人が多いかもしれない。しかしこの日は、マルティン・ルターが「95カ条の論題」を教会の扉に張り出した日に由来する「宗教改革記念日」であり、プロテスタントの諸教会が生まれる発端となった重要な日である。

宗教改革では、アウグスチノ会の修道士であったルターの他に、神学者のジャン・カルヴァン、後にスコットランドの長老派教会を創立するジョン・ノックスなどが有名だ。

しかし、宗教改革は男性だけが行ったものではなく、女性も重要な役割を果たした。ここでは、宗教改革に貢献した7人の女性を紹介する。

◇

マリー・デンティエール(Marie Dentière、1495~1561)

マリー・デンティエール
スイス・ジュネーブの宗教改革記念碑に刻まれるマリー・デンティエールの名前(写真:MHM55)

1495年にフランスの小貴族の家に生まれたマリー・デンティエールは、アウグスチノ会の修道院で修道院長を務めていたが、宗教改革を知って修道院を去ることになった。

デンティエールは、修道女たちを宗教改革に導くことに力を注ぎ、改革派神学を擁護するための書物も書いた。カルヴァンからも尊敬され、彼の説教集の序文を書いてほしいと依頼されたこともあったという。

アドリアン・シーガル氏は、ウェブ宣教団体「デザイアリング・ゴッド」のサイトに掲載した寄稿(英語)で、「マリー・デンティエールは2002年、ジュネーブにある有名な宗教改革記念碑に名前を刻まれた唯一の女性となりました」と記述している。

「当時の人々が考えていた女性としての慎ましさや謙虚さという点においては、彼女はきっと欠けがあったでしょう。しかし、彼女の情熱が、聖書の1ページ、1ページに燃やされていたからこそ、彼女の文章は彼女の時代だけでなく、今日の私たちの心をも揺さぶり、変えたのです」

アルギュラ・フォン・グルムバッハ(Argula von Grumbach、1492~1544)

アルギュラ・フォン・グルムバッハ
ドイツ南部ベラッツハウゼンにある欧州彫刻公園に立つアルギュラ・フォン・グルムバッハの像(写真:MarcitoFuRe)

クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見した年に、ドイツ南部バイエルンの貴族シュタウフ家に生まれたアルギュラ・フォン・グルムバッハ(旧姓:フォン・シュタウフ)は、宗教改革を擁護したことで知られている。

当時バイエルンにあったインゴルシュタット大学が、プロテスタントの講師を異端嫌疑により監禁したとき、アルギュラは大学に宛て抗議の書簡を書いた。それが宗教改革の思想を広めるものとなり、広く一般にも行き渡ることになった。

アルギュラと頻繁に手紙のやりとりをし、1530年にドイツ南部アウクスブルク近郊で直接彼女に会ったルターは、彼女とその働きを高く評価した。オンライン神学誌「クレド」(英語)によると、ルターは友人に宛てた手紙で次のように書いている。

「あの最も高貴な女性、アルギュラ・フォン・シュタウフは、偉大な精神と大胆な言葉とキリストに関する知識をもって、そこで勇敢に戦っています。彼女は、全ての人が彼女の中におられるキリストの勝利のために祈るに値する人物です」

「このような怪物のような人々の中で、彼女だけが、心の中に震えがないわけではないと認めながらも、確固たる信仰を持って戦い続けています。彼女はキリストの特別な道具なのです」

マルグリット・ド・ナバラ(Marguerite de Navarre、1492~1549)

マルグリット・ド・ナバラ
フランソワ・クルーエによるマルグリット・ド・ナバラの肖像画(フランス国立図書館所蔵)

フランス王室の一員であったマルグリット・ド・ナバルは、宗教改革が始まったときには20代で、教養ある作家であり、芸術の支援者でもあった。

マルグリットは、ルターやカルヴァンの著作を読んで宗教改革を受け入れ、フランス語訳の聖書を作ることを提唱した。

フランスとスペインに挟まれた小国ナバラの王妃となった彼女は、カトリックの君主から迫害を受けていたプロテスタントの人々のために、この地を避難地とした。

サビー・スツァーズキー氏は、米キリスト教団体「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」のサイトに掲載した寄稿(英語)で次のように述べている。

「彼女は、作家、芸術家、学者、神学者を宮廷に迎え、意見を交わしただけでなく、カルヴァンをはじめとするフランスやその他の地域の宗教改革の指導者たちに、迫害からの避難場所を提供しました」

「彼女は、フランスの貴族で初めて自分の作品を編集した女性であり、初めて詩集を出版したプロテスタントの女性詩人でもあります。内省的で神秘的な彼女の文章には、改革派の信仰に行き着くまでの旅路とキリストとの個人的な関係が反映されています」

エリザベス1世(Elizabeth I、1533~1603)

エリザベス1世
ヨアネス・コーバスによるエリザベス1世の肖像画(英国立肖像画美術館所蔵)

宗教改革が始まった後に生まれたイングランドの女王エリザベス1世は、プロテスタントを迫害したことで「血のメアリー」と呼ばれた女王メアリー1世の死後、即位した。

エリザベス1世は、プロテスタントのキリスト教をイングランドの公式な宗教として確立させ(現在の英国国教会)、同時に他のキリスト教の教派も容認したことで知られている。

改革派協会のピーター・ハモンド氏は、クリスチャンアクションのサイトに掲載した寄稿(英語)で次のように述べている。

「彼女自身がロンドン塔に幽閉され、処刑の危機にさらされたにもかかわらず、報復や復讐(ふくしゅう)を許さずに宗教的な迫害を終結させたことは注目に値します。彼女は、カトリックを罰しようとする試みに断固として抵抗し、王国の法律を犯さない限り、法の下で平等に保護される権利があると主張しました」

カタリナ・シュッツ・ツェル(Katharina Schütz Zell、1498~1562)

カタリナ・シュッツ・ツェル
ドイツ東部ウィッテンベルクのクンストハレ(美術館)にある「宗教改革の園」の壁画に描かれたカタリナ・シュッツ・ツェル(写真:パブリックドメイン)

「母なる宗教改革者」と呼ばれるカタリナ・シュッツ・ツェルは、その宗教的な著作だけでなく、プロテスタントの避難者の支援に尽力したことでも知られている。

現在のフランス東部ストラスブール出身のツェルは、1525年にプロテスタントの牧師と結婚したが、これは欧州史上初の正式なプロテスタントの結婚の一つとされている。

ツェルは、聖職者の結婚を擁護する著作、また詩編の一部や主の祈りを解説する著作などを執筆し、自身に向けられた「平和を乱す者」という汚名を否定する公開書簡を発表した。

レベッカ・ファン・ドゥッドワールド氏は、キリスト教月刊誌「テーブルトーク」(英語)で次のように述べている。

「彼女は、自分の家の管理や避難者の受け入れに秀でていた一方で、神学的な立場を活字によって守っていました。彼女は良い意味での女性神学者でした。今日、歴史家は彼女を『平信徒の改革者』と呼んでいます。しかし、彼女は全てのクリスチャンがすべきことをしただけであり、自分の才能を自分の領域で、可能な限り福音の変化のために使ったのです」

また、有名なスイスの宗教改革者であるウルリッヒ・ツヴィングリは、ツェルを「マリアとマルタの両方の恵みを兼ね備えた人物」と述べ、評価している。

カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora、1499~1552)

カタリナ・フォン・ボラ/カタリナ・ルター
ルーカス・クラナッハによるカタリナ・フォン・ボラの肖像画(ドイツ・ ヘルツォークアウグスト公立図書館所蔵)

カタリナ・フォン・ボラは修道女だったが、修道院を出てルターと結婚し、カタリナ・ルターとなったことで広く知られている。彼女はまた、この宗教改革の指導者を幅広く支援した。

ダン・グレイブス氏はキリスト教サイト「クリスチャニティー・ドットコム」(英語)で、「カタリナは家計を管理し、ルターを執筆、教育、説教に解放しました」と述べている。

「ルターは彼女を『ヴィッテンベルクの明けの明星』と呼んでいましたが、それは彼女が朝4時に起きて多くの仕事をこなしていたからです。彼女は菜園、果樹園、養魚池、小屋の家畜たちの世話をし、自身で家畜の屠殺(とさつ)をすることもありました」

彼女はまた、ルターとの間に6人の子どもを産み、さらに4人の子どもを養子にした。

グレイブス氏は、「彼女が純粋な性格を持った勤勉な女性でなければ、宗教改革は苦難に満ちたものになっていたかもしれません」と述べている。

ジェーン・グレイ(Jane Grey、1537~1554)

ポール・ドラローシュ「レディー・ジェーン・グレイの処刑」(1833年、英国立美術館所蔵)
ポール・ドラローシュ「レディー・ジェーン・グレイの処刑」(1833年、英国立美術館所蔵)

英国の貴族であったジェーン・グレイは、10代の若さでイングランドの女王に即位したが、メアリー1世によってわずか9日間で廃位され、その9カ月後には処刑されたことで知られている。

しかし処刑後、王位を継承する数年前に宗教改革に参加していたとして、プロテスタントの殉教者として高く評価されることになった。

ダイアナ・セベランス氏は、クレド(英語)で次のように述べている。

「メアリー1世は、死刑執行を3日間延期し、チャプレンのジョン・フェッケナムをジェーンの元に送り、彼女をカトリックに改宗させようとしました。ジェーンはフェッケナムとの会話を書き記しており、それは彼女のキリストと聖書への信仰を証明するものでした。

ロンドン塔の中で死に直面していたジェーンの手紙や文章はすぐに印刷され、広く流布しました。ジェーンはプロテスタントの殉教者として尊敬されました。カルヴァンは彼女を『永遠に思い出すに値する模範となる女性』と認めました」