2021年3月12日11時33分

自由人として生きる 菅野直基

コラムニスト : 菅野直基

聖書は「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」(1ペテロ2:16、17)と教えます。

聖書が教える自由とは、権利を主張し、勝手気ままに生きる自由ではなく、神の御心を自ら進んで、喜んで選び取り、実行する自由なのです。

もちろん、聖書の別の箇所では「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」(1コリント6:12)とあります。

また「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません」(1コリント10:23)と書かれています。

自由とは「すべてのことが許されている」「すへてのことをしてもよい」ということが前提です。しかし、すべてのことが有益ではなく、人の徳を高めません。それらをしない自由があるのです。

私たちには、罪を犯さない自由があり、この世と妥協しない自由があり、人の顔色を恐れて行動を変えない自由があります。冒頭の聖句にあるように、すへての人を敬う自由があります。「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」

自分の利害や損得、好き嫌いで人を判断し、ある人を高くし、ある人を低く扱う人がいます。自分の罪の性質から自由になっていない故にそうしてしまうとしたら、それは罪の奴隷です。自由人ではありません。

「神を恐れよ」は分かりますが「王を尊べ」はどうでしょうか? ペテロがこの手紙を書いた時代は、ネロ皇帝やドミティアーヌス皇帝が世を治め、クリスチャンへの迫害が始まっていた時代です。

今は反政権デモをする自由がありますが、聖書とそれは合致しているでしょうか? 聖書が反政府デモを認めるのはおそらく、神が明確に命じたことに対して支配者が背くように命じたような場合です。

それ以外は、好き嫌いで良し悪しを言うのではなく、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)とある通りであり、一つになって祈るべきです。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」(1テモテ2:1)

自分の好き嫌い、利害や損得などの自分のこだわり、古い人、罪の性質などから自由にされていることを感謝して、神が喜ばれる生き方を目指していきましょう。

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菅野直基

菅野直基

(かんの・なおき)

1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。

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