2020年12月22日10時01分

執着からの解放 菅野直基

コラムニスト : 菅野直基

人を苦しめるものの一つが執着心ではないかと思います。歳を重ねて一つ一つの職責が失われていくと、不安になるものでしょう。役職にしがみついて、その役から降りない人がいます。その人自らが降りることを決断しない限り、周りの人が「先生、そろそろ・・・」とは言いにくいものです。

私は牧師なので牧師の実例を挙げますが、「生涯・牧師」という方がおられます。それは尊い使命感であると思いますし、気力と情熱さえあれば、それで良いと思います。しかし、同じ話ばかりをしたり、話がくどくなったら、自らで進退を決めるか、責任ある役職を降りてサポートに回るなどした方が良いのではないかと思います。そうじゃないと、周りが苦労しますし、次世代がやりにくいですし、育ちません。

サラリーマンが退職後に何もやることがなくて、引きこもりになってしまうという話を聞くことがあります。「言われた仕事をやる」ということは大切なことですが、「指示されなければ何もできない」では困ります。自分で考えて仕事をしている人には、退職後に何もやることがなくて困るということはありません。そういう人は、退職後のことをあらかじめ考えているからです。趣味やちょっとしたボランティアであっても、退職後も同じように忙しく毎日を過ごします。執着をやめて手放しても、ちゃんと次の仕事がやってくるものです。

何度も経験してきましたが、一つの扉が閉じたら、次の扉が開きます。扉が閉ざされたときには、自分の存在が否定されて落ち込むことがあっても、少し長い目で見たら、落ち込んでいる暇もありません。次の扉が開いてはるかに素晴らしい道が待っているのてすから。

そして、もし執着するとしたら、神様に対して執着しましょう。神様は、私たちが執着しなくても、大きな手で私たちを包んでいてくださいます。変わるもの、なくなるものに執着して、そこに土台を置くのではなく、変わらないもの、なくならないものの上に土台を築き、生きていきましょう。そうしたら、執着心から解放され、自由になれます。

イエス様を信じる人に与えられる救いは変わることがありません。そこには、神の子としての立場、永遠のいのち、天国の市民権が含まれます。執着心を持たなくてもいいのです。十分に与えられているからです。失ったならば「次は何が与えられるだろうか?!」と期待しながら生きていきたいものです。

あっても感謝、なくても感謝。その領域にまで行くことができますように。

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菅野直基

菅野直基

(かんの・なおき)

1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。

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