2018年9月9日18時13分

なにゆえキリストの道なのか(159)神は愛の神なのにどうして地獄を造ったのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

神は愛の神なのにどうして地獄を造ったのか。

神は、その基本的属性が“聖(≑義)”と“愛”であるということができますが、その中でも“聖性”が最も基礎的な属性だといえます。その聖性のゆえに、神は不義なるもの、罪・汚れ・悪なるものを受け入れることがないし、それらを持った存在は聖なる神に近づくことができないのです。

その一方で、神は、御子を地上に送り、人類の罪の身代わりとして十字架の刑につけて罪を赦(ゆる)すこととされ、信じる者を神の子とする道を開いてくださいました。神が愛なることを示したのです。

そんなまわりくどい道を取らず、罪をそのまま赦すという方法もあったと思いますが、神は上述の聖性のゆえに罪をそのままにしたり、罪人をそのまま受け入れることはされなかったのです。そして、神に敵対し、正義を無視した悪人を(すぐに無に返すこともできたが)1カ所に集めて、その生き方に責任を取らせることとされたようです。それがすなわち、ゲヘナ(地獄)です。

ミルトンの楽園喪失(失楽園)によれば、天地の創造以前に天上で、御使いたちのうちのサタンが「リーダーになりたい」との野望にとらわれ、全御使いの3分の1ほどの同士と共に神に反逆して戦いとなり、敗れたサタン軍は天上界から追い落とされました。このサタン軍のために、神は混沌世界の底の一角に閉じ込める所を設けましたが、これが地獄だとしています。ユニークな見方です。

その正否を断定することはできませんが、要するに、神の愛に基づく救い(福音)をあくまで拒み、逆らう存在は、神の聖性によってはじき出され、御国の外に追い出されるほかないわけです。そこがすなわち地獄です。

人間の心情はどうであれ、神は、その聖性に相反する者は受け入れることをしません。神がせっかく「罪の人間をなんとか救ってやろう」との格別の愛に基づき、大きな犠牲を払って設けてくださった福音の道を拒むなら、“聖性”の原則に戻らざるを得ません。その行き着く先が地獄なのです。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ