2018年1月31日17時07分

脳性麻痺と共に生きる(43)電動車椅子で修学旅行 有田憲一郎

コラムニスト : 有田憲一郎

修学旅行の訪問地を調べて準備会で発表したものの、僕の発表は、漢字が読めないなど散々なものでした。僕の作成した資料は、ガイドマップなどに書いてある内容をほぼそのまま、ワープロで書き写したものでした。

「書き写しただけじゃないのか。漢字も読めてないし、内容も意味も理解してないだろう。そんなんじゃダメだ。修学旅行に行けないよ。もう1回ちゃんと調べて、自分の言葉でまとめてきなさい」と言われ、何度も何度も家で調べ直していました。高等部も残り1年を切っていたのですが、自分で考える力もなく、調べ直してはみるものの、内容は理解できていませんでした。

高等部2年生の3学期から始まった準備会も、あっという間に月日が流れ、気が付けば修学旅行が間近に迫っていました。同級生が完璧に調べて資料を提出する中、僕だけ内容を理解していないまま資料を提出し、旅のしおりが完成しました。

旅のしおりを家に持ち帰ると、「すごいね。みんなで調べたんだね。ところで自分で調べた場所のこととか歴史とか、ちゃんと分かったよね」と父に聞かれた僕は、「行けば何とかなるよ」と答えました。普段の教科でもそうでしたが、少しは勉強して調べた内容でも、まったくと言っていいほど理解していなかった僕に、両親はあきれていたと思います。

出発の数日前、「いよいよだね。修学旅行には、何とか行けそうだね。楽しんでくるんだよ」と両親に言われながら、旅の準備を始めました。まだ行ったことのない仙台。「どんな所だろう?」と想像を膨らませながら、父に持ち物や衣服をそろえてもらっていました。

足の痛みは絶えることなく続いていました。しかし、この頃から痛み方も変わり、激痛には変わりないものの、「少し和らいできたかな」と感じ始めていたのです。それでも、絶えず激しい痛みがあるため、薬に頼るのは嫌いでしたが、痛み止めの薬は手放すことのできない常備薬になっていました。

修学旅行を楽しみにしている一方で、「行けなかったらどうしよう」「足の痛みに耐えきれなかったらどうしよう」と不安ばかりが頭の中をよぎっていました。家族に頼み、旅行カバンに衣服や歯ブラシなどを詰めてもらいながら、「薬、多めに入れてね」と僕は何度も言っていました。

持ち歩くリュックの中には、必需品のタオルやストロー、新幹線やバスの座席に座る際、体がずれ落ちないように体を固定するためのさらし、そして、痛み止めやシップ。「さらしと手ぬぐいも数枚入れておくからね。痛いときは我慢しないで、先生に言いなよ。痛みは自分にしか分からないんだからね。楽な体勢にしてもらって、必要だったら足とか体とか腰とか固定してもらいなさいね」と言って準備してくれました。

当日の朝。「おはよう。痛みはどうだい?修学旅行、行けそう?」。いつものように父が起こしに来ました。マッサージをしてもらい、体を伸ばして背伸びをし、「行けそう。行ってくる」と出掛ける準備をしました。

仙台へは新幹線で行きます。幼い頃から旅好きで、家族であちこち連れていってもらいましたが、移動手段というと車や飛行機が多く、それまで新幹線にはほとんど乗ったことがありませんでした。1、2年生の生活訓練に行くことができなかった上に、初めて訪れる仙台の地とあって、僕は少し緊張しつつも、うれしさと喜びを二重も三重も感じていました。

そして僕には、もう1つ楽しみがありました。それは、行きたい場所に自由に行ける電動車椅子で行けることでした。高等部1年生から電動車椅子に乗っていますが、旅行に行くときなどは交通の便や現地の状況などから、やむを得ず手動車椅子で行き、誰かに押してもらわなければなりませんでした。

今では、鉄道や路線バスなどでも、駅員さんや運転手さんに手伝ってもらい、電動車椅子でも気楽に公共の交通機関に乗ることができるようになりました。また、観光地や公共施設などでバリアフリー化が進み、障碍(しょうがい)者や老若男女を問わず「行こう」と思えば気楽に行くことができる時代です。しかし、当時は難しい面がまだたくさんありました。そうした中で自分の足となる電動車椅子で修学旅行に行けることは、僕にとってたまらなくうれしいことでした。

仙台駅に着くと、観光バスと車椅子を運ぶトラックが待っていました。こうして僕たちの修学旅行が始まり、仙台、松島、作並温泉を巡っていったのです。

それまで、旅行に行くと誰かに押してもらい、押されるがままだった僕が、先生に「自由に好きに行きたいように行っていいよ」と言われると、最初は戸惑いと「本当にいいのか」という不安で先生についていったものの、しばらくすると電動車椅子のスピードも上がり、1人で好きに歩き回っていました。知らない街の中を自分1人で歩く。それは夢のようでした。

松島では瑞巌寺(ずいがんじ)や五大堂を巡り、遊覧船で塩竈(しおがま)に行き、笹かまぼこの工場などを見学して回りました。日本三景の1つである松島は僕が調べたエリアで、行くところ行くところ「ここか」「これのことか」と思いながら歩いていました。

「有田君。ここは、どういう場所だったっけ?」と調べた僕にいろいろ聞いてきます。しかし、聞かれるたびに「え~と」と何も答えられず、静かにバスガイドさんの説明を聞いていました。「有田君。ちゃんとガイドさんの話、聞いていた?ちゃんと理解できてる?帰ったら勉強な。テストするから」と言われましたが、僕は3分の1程度しか頭に入らず、あまり理解していませんでした。

足の痛みが消えることはありませんでしたが、薬を飲み、先生にマッサージや、激しい痛みの時には自分の楽な体勢で足や体などを固定してもらいながら、無事に修学旅行の全日程を終えられたことが何よりの喜びでした。最終日の朝、ホテルで校長先生に「有田君。一緒に来れてよかったな。よく頑張ったな」と言われてうれしかったことは、今でも忘れません。

修学旅行から帰り、上野駅に父が迎えに来ていました。先生から様子を伺い、元気な様子で帰ってきた僕を見ると、父はホッとした表情を見せてくれました。

<<前回へ

◇

有田憲一郎

有田憲一郎

(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックやブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。