2017年10月29日05時58分

牧師の小窓(104)雲仙・長崎 キリシタンの旅・その20 天正遣欧少年使節の帰国後 福江等

コラムニスト : 福江等

牧師の小窓(104)雲仙・長崎 キリシタンの旅・その20 天正遣欧少年使節の帰国後 福江等
2014年にイタリア・ミラノで発見された伊東マンショの肖像 ドメニコ・ティントレット筆 イタリア1585年 ミラノ、トリヴルツィオ財団蔵 Fondazione Trivulzio-Milano

ヨーロッパでの大役を無事果たした天正遣欧少年使節は1590年、実に8年ぶりに帰国を果たしました。帰国後、この少年たち(といっても、彼らはすでに20歳を越す青年になっておりました)がどのような人生を送ったか、最後に記しておきたいと思います。

1593年、4人は長崎・天草河内浦の修練院に入り、神父になるための勉強を続け、そこでイエズス会に正式入会しています。しかし、その後、キリシタンへの取り締まりが次第に厳しくなっていく中で、1601年、 伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノの3人は神学を学ぶため、マカオのコレジオ(神学校)に留学します。この時点で千々石ミゲルはイエズス会を脱会。千々石清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕え、その後どうなったのかはっきりしたことが分からないようです。

マカオでの3年間の学びを終えた3人は長崎に戻り、そろって司祭に叙階されました。しかし、使節の主席正使であった伊東マンショは1608年、長崎で病死します。副使であった原マルチノは14年にキリシタン弾圧を逃れてマカオに脱出します。そして、かの地で29年に病死しています。

もう1人の副使であった中浦ジュリアンは、弾圧の中で潜伏しながら布教を続けますが、長崎でついに捕らえられ、西坂で逆さにつるされて息を引き取りました。中浦ジュリアンがローマに宛てた手紙が今も西坂の二十六聖人記念館に残されていて、その中で「私の慰めはかつて聖なる都ローマから受けた愛に満ちた恵みだけです」と記しています。あのサンピエトロ大聖堂でローマ教皇たちに大歓迎を受けた記憶が、彼を苦しみの中で慰め続けていたのでしょう。

時の政治によって翻弄(ほんろう)されたこの少年たちの生涯や、数え切れないほどの殉教者のことを考えるとき、悲しみで言葉を失います。今回の雲仙・長崎キリシタンの旅を通して、いわれなき苦しみを負った多くの純朴な人々、命を懸けて日本宣教を試みた宣教師たち、迫害の中でも、その信仰の火を決して絶やすことなく子孫に伝え続けた人々、そして、苦しみから立ち上がった多くの人々のことを思うと、キリストの受難と復活のお姿がおのずと浮かび上がってくるようです。

旅の報告をここまで読んでくださった皆様に心から感謝して、今回の報告を終わりたいと思います。

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福江等

福江等

(ふくえ・ひとし)

1947年、香川県生まれ。1966年、上智大学文学部英文科に入学。1984年、ボストン大学大学院卒、神学博士号修得。1973年、高知加賀野井キリスト教会創立。2001~07年、フィリピンのアジア・パシフィック・ナザレン神学大学院教授、学長。現在、高知加賀野井キリスト教会牧師、高知刑務所教誨師、高知県立大学非常勤講師。著書に『主が聖であられるように』(訳書)、『聖化の説教[旧約篇Ⅱ]―牧師17人が語るホーリネスの恵み』(共著)、『天のふるさとに近づきつつ―人生・信仰・終活―』(ビリー・グラハム著、訳書)など。

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