2017年10月14日05時20分

なにゆえキリストの道なのか(113)キリストは殺されたのに、どうして人を救うことができるのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

キリストは殺されたのに、どうして人を救うことができるのか。

キリストは単に殺されたのではありません。殺されるような道をわざわざ選んで行って、そして予期した通り殺されたのです。それは、旧約聖書の中に預言されていた通りでした。このように、キリストは預言において示されていた(神のご計画の通りの)道を選び取って、いわば、ご自分の意志で殺されたのです。これが十字架の死です。

では、なぜそのような死を計画されたのでしょうか。それは、人間の始祖アダムとエバが罪を犯し、子孫である人間がその罪の体質を引き継ぎ、すべての人が罪人になっているからです。

罪人は、聖であり義である(きよいきよい)神の前に出ることができず、(肉の命の死の後)滅ぼされてしまうほかありません。この人間を創造の目的通り神の子とするためには、その罪を取り除き、義(ただしい、すなわち罪のない)存在とする必要がありました。

聖であり義である神が罪をそのまま見過ごすことはあり得ないからです。この罪を取り除き、ぬぐい去るため、罰することにしたのです。罪は罰を必要とします。すべての人が罪を犯しているのですべての人が罰を受けねばなりません。

しかし、それでは折角(せっかく)の創造目的が達せられません。みな罰せられて滅びるからです。そこで、すべての罪人のために、すべての罪人に代わって、神の御子が罰を受けてくださることにし、その計画が立てられたのです。神の中で、永遠の昔から立てられていて、それが預言されてきたのです。そして、それが実行されたのです。

イエス・キリストが殺されたことにより、すなわち、この罰を受けてくれたことにより、罪人が罪を赦(ゆる)され、罪が問われない道が開かれました。この「罪を問われない者」が、神に受け入れられ、神の子とされ、ゆくゆく永遠の命に行く者とされたのです。つまり、キリストは(十字架の上で)殺されることにより、すべての罪人を救う者となったのです。

ただし、キリストの神を信ぜず、その死が自分の罪、自分の救いと関係ないとする者には適用されません。信じる者にだけ救いとなるのです。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ