2017年9月23日06時26分

なにゆえキリストの道なのか(110)自分の栄光を求めることは悪いことではない? 正木称

コラムニスト : 正木弥

自分の栄光を求めることは悪いことではない。

自分の能力、賜物などを生かし、伸ばすことは、人間の本来的在り方であって、良いことではないのか。また、自分に矜持(きょうじ)を持ち、誇りを持つことは、向上心を強め、善事に励ませるし、醜いこと・下劣なこと・みっともないことに堕(お)ちないようにさせる効果があるのではないか――。

そういう面もあるでしょう。一方で、考えてみましょう。

あなたの能力、あなたの賜物にはどんなものがありますか。思考力、記憶力、想像力、努力し続ける力、工夫・創意、忍耐力、才覚、指導力、体力、運動能力、器用さ、技能、人間的魅力、顔付き、容姿、風貌、財力、弁舌の才、お金もうけの才、芸術的表現力、歌唱力、生まれ付きの地位、家柄、出自、立場、権力、知力・・・。

これらはよ~くよ~く掘り起こしてみると、生まれ付き、あるいは、父母などの家族関係、家柄など生まれ落ちる環境、成育環境などによって得たものが多いのです。時にはその後の好運などもあるでしょうが、大体が自分以外の要素で決まるものです。純粋にあなたの努力がどの程度関与しているのでしょうか。努力できる力もまた生まれ付いている場合が多いのです。

これら広義の能力、才能、賜物などは、多くが文字通り(神様から)賜ったもの、もっと謙虚に言うならば預かっているものです。もし、そうなら、自分のものだ、自分の功績だとして誇るのはよくない、と言えませんか。自分が褒められたい、たたえられたいと思うのは間違いではないでしょうか。

人がもし誇るなら、その人は傲慢(ごうまん)・不遜になりやすい。そうなると、真相が見えなくなり、つまづきやすくなります。

「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし(神)を知っていることを」(エレミヤ9:23)

自分の栄光を求めていると、他人からよく見られたい、褒められたい、よい評価を得たいとひたすら考えるようになり、主体性を失います。他人の意識に媚(こ)び、他人の意識に合うように生きようとする。自分の真の姿を隠し、自分を偽る。偽善者になりやすい。また、そのように装い、そのように努力することで疲れ果てることにもなりかねません。

自分の栄光を求めていくと、往々にして、隣人への愛がおろそかになり、競合するものをねたみ、自分に悪評する者を憎むようになります。悪い評価はそれが正しくてもあからさまにすることを嫌い、時には競争者の失敗・不運を喜び願うようになりがちです。醜い心、悪臭をかもす存在になりがちです。

自分に何かを与えるのは究極的には神様です。神様こそ、褒めたたえられるべき方です。そして、人はそもそも神様の栄光のため、造られ、命を与えられているのです。人が自分の栄光を求めるのは、この根本的事実に反することではないでしょうか。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ