2017年8月19日06時06分

なにゆえキリストの道なのか(105)人はみな罪人、それがどうして問題になるのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

罪があればどうなるというのか。人はみな罪人だ。それがどうして問題になるのか。罪は人の自然性である。問題にしなくてもいいのではないか。

既述の通り、人はみな罪人です。行いとなって表に現れるかどうかは別として、少なくとも内心は罪に満ちております。他者がそれに気付くかどうかは別として、内心は罪で溢れています。あなたも私も、彼も彼女も同じです。

それを隠そうとするかしないか、隠すのがうまいか下手か、その罪が多少悪質かさっぱりしているか、多少大きいか小さいか、その差にすぎません。罪があるからどうなるというのか。(犯罪の罪は別として)多くの場合、誰もそれを罰しはしません。

しかし、罪はその人生を不幸にします。罪ゆえに、内心は荒れ、不安、不信、焦燥などが渦巻き、人間関係を険悪にします。場合によっては行いの罪へ、さらに場合によっては犯罪にまで発展します。

一番の問題は、罪が神に嫌われるもとになり、神の怒りを呼び起こすことです。あらゆる祝福のもとなる神から遠ざけられることです。そして、罪をそのままにしておけば、その人は神のもとから捨て去られます。最後的には、[死んだ後に]神のさばきを受けることになります。さばきによって、天国には行けない、永遠のいのちにあずかれないことになります。

かえって永遠の刑罰を受けることになります。それはつらい、つらいことです。罪のもたらす結果は重大です。みんながそうだからといって、つらさがなくなるわけではありません。「赤信号みんなで渡れば怖くない」。これは人間世界のこと。神のなさることに当てはめられません。

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(ヘブル10:31)、「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」(マルコ9:48)。罪のもたらす結果は実に重大です。生半可に考えていてはいけません。

罪のもたらすこの悲惨な結果を免れさせるため、神は、誰でもできる逃れの方法を講じてくれました。それは御子イエス・キリストが十字架の上で本来われわれが受けるべき刑罰を代わって受けてくださったことで、それを自分のためであったと信じる者の罪を赦(ゆる)してくれることになりました。

実に簡便でたやすいことです。素直にこのことを信じましょう。罪の問題を解決しておきましょう。罪は万民に普遍的ですが、その赦しの道も万民に普遍的です。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ