2017年7月8日07時44分

なにゆえキリストの道なのか(99)罪とは何か、罪があればどうしたというのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

罪とは何か、罪があればどうしたというのか。

神は天と地とその中に満ちるすべての物(被造物)をお造りになりました。人もそうです。人も神によって造られた存在です。ひとりでにできたとか、偶然の積み重ねによって自然にできたのではありません。ならば、人はその造り主の意図とか意向や教えに無関係に生きてよいはずがないですね。

どんな簡単なものでも、造り出すときは「こういうふうに役立てよう」という意図(目的)を持っています。普通、無目的に造るということは考えられません。人間は、コップとか、鉛筆とか、蛍光灯とか、テレビとかを造りました。コップ、鉛筆、蛍光灯、テレビ、それぞれに機能は違いますが、共通点もあります。それは造り主・人間のために役に立つという目的がある点です。

もし、これらの物が壊れて(修理もできず)もう機能が果たせない、役に立たないということになれば、捨てるほかありません。「いや、大事にとっておこう」という人はまずいないでしょう。

人間も造り主である神の創造目的から外れたらどうなるでしょうか。神から見て無益な存在になります。そうなると、捨てられても仕方がありません。

“罪”という語のギリシャ語は「αμαρτια(ハルマティア)」といいますが、それは、“的外れ”の意味、すなわち創造の目的から外れた生き方を指します。罪とは的外れの生き方のことです。そのような存在は捨てられるほかありません。

人間の造り主である神は、聖にして義なる方です。この属性に反するもの、例えば、汚れ、醜悪、腐敗、不義、だまし、邪悪など、あるいはこれらに染まっている者は、聖なる神に近寄れないのです。神の怒りをこうむるのです。これらも罪です。罪とは神の聖性・義性に反することだともいえます。そのような存在は滅ぼされることになります。

造り主なる神は、人がこうあるべきだという基準(律法、教え、命令など)を設定されました。それらは人間が不幸にならないようにとの神の慮(おもんばか)りでありますが、それとともに、神が本来持っておられる威厳と栄光を確立するものです。それらに違反し守らないことは、神への侮り・反逆であり、神の怒りの対象になります。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ