2017年2月9日11時24分

死に勝るいのちを得て(106)何をどういうふうにしてもよいのか 米田武義

コラムニスト : 米田武義

何をどういうふうにしてもよいのか

夕方TVを見ていたら、自分が非常に共鳴を覚えて読んだ本の著者が出演していた。私は引き付けられるように、その番組に見入った。しかし見るほどに、思ったほどではなかったので、何とはなしに落胆してきた。

というのは、その著者は医者であり、健康に関する著作者であったのだが、当の本人は何となくあまり健康そうには見えないし、皮膚が年の割にたるんでいて姿勢も悪く、動作も年の割に年寄りくさい。私はこの医者の書いていることは、何となく極端に過ぎるなあとは思っていたが、本人を見て100パーセント信じられないという思いを強くした。

他の例では、私は英会話に通って10余年になるが、同じレベルでも、レベルの高い人とレベルの低い人とでは雲泥の差がある。外人の教師が授業を始める前にいろいろ雑談したり、後で雑談したりするが、いくら偉そうなことを言っていても、授業で大したことができないと分かると、授業以外で見聞きしたことが色あせて見える。特に立派なことを言っていれば言っているほど、そう思えてくる。本当は大したことはないのだ、などと思ったりする。

「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです」(ローマ14:20)

私たちは何でも許されているけれども、救われていない人のことを無視してはいけない。イエス・キリストの生涯に目を向けねばならない。

洗礼を受けてからのイエス・キリストは、いつも目を最終目標、人類の救いに向けており、彼の日常行為も、病気の癒やしも、全てがそれに向かって集約されていた。未信者につまずきを与えるような言動は慎み、努めるべきところは努めないといけないと思う。

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。