2017年1月19日19時33分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(103)神様は愛される必要があるのか 米田武義

コラムニスト : 米田武義

神様は愛される必要があるのか

神様は自己充足のできるお方である。誰の助けをも必要とせず、全ての必要を持っておられる。神様は人間によって愛される必要があるのだろうか。人間のように、神様と比べものにならぬくらい下位にある者に愛されて、うれしいのだろうか。

神様は造り主である。私たちも自分で作った物、例えば焼き物などを作ったりすると、それを大事にする気持ちはよく分かる。しかし、愛するとまではいかない。私たちが飼っているペットや動物はどうであろうか。十数年、共に生きたペットなどは、生命があり、私たちが作ったのではないけれども、私たちの多くは、飼っている犬や猫をわが子のように愛する。

神様のように生き物を造ることができるお方にしか分からないが、生き物を造るということは、たとえそれが神様よりも劣った生き物であっても、愛する対象となるのかもしれない。また、この下位の生き物が尾を振って、私たちになつくと私たちはうれしいように、私たちが神様を愛し、神様の栄光をたたえることも、神様にとっては喜ばしいことなのであろう。

ちょうど赤ん坊が私たちを慕うのを、私たちが目を細めて喜ぶように、神様も私たちが慕うのを喜ばれるのであろう。

神様が私たちを愛してくださっている一番の証拠は、イエス・キリストを世に送ってくださったことである。私たちにとって、創造主なる神様を、あまりにも哲学的に、科学的に驚異を深く探るのは不信仰かもしれない。神様と私たちの間に、贖(あがな)い主であるイエス・キリストのいない信仰は、不信仰であろう。もしくは、イエス・キリストはいても、形式的な存在になっているとしたら、それも不信仰であろう。

「父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」(マタイの福音書11:27)

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイの福音書22:37)

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。