2016年11月2日19時23分

どんな人が神様からほめられるの? 菅野直基

コラムニスト : 菅野直基

タクシーの運転手と牧師が天国に入った。タクシーの運転手は、最高で時速200キロも出すようなスピード狂であった。乗った人は、シートベルトをし、死ぬかもしれないと思った。牧師は、優しい語り口で、難解な説教をし、会衆を安らかな気持ちにさせた。

ある日、タクシーの運転手と牧師は死んだ。神様は、天国で牧師よりもタクシー運転手をほめた。

タクシー運転手に神様は、「あなたは、たくさんの人に、『神様、助けてください!』と祈らせた。偉かった」。

次に、神様は牧師に、「あなたは40年も教会を牧会したが、みんなを眠らせてばかりだった。一体どういうことだ!?」。

これはジョークですので、神様が本当にそう言われるかどうか分かりませんが、会衆をいつも眠らせるような説教者になりたくないと思います。

ところで、キリスト教徒は、目に見える像やご本尊、教祖などを拝むことはありません。神は目に見えないお方だからです。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません」(使徒の働き17:24~29)と聖書に書かれています。

教会には、神の臨在があります。目で見えず、耳で聞こえず、手で触れることはできなくても、神がここにおられ、生きておられることを、体験することができます。聖霊が満ち溢れ、神の臨在が満ち溢れるならば、教会に来て眠くなってしまうことはありません。平安と癒やしがあり、人を元気にさせます。

日曜日にタクシーに乗って、スピード狂の運転手の運転に、「神様、助けてください。守ってください!」と祈るのもいいですが、教会で、「神様、1週間守ってください!」と共に祈りませんか?

日曜日は教会へ!

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菅野直基

菅野直基

(かんの・なおき)

1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。

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