2016年9月8日07時12分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(84)切羽詰まったときに考えること 米田武義

コラムニスト : 米田武義

切羽詰まったときに考えること

時に、今行っている治療に関して不安が湧き起こってきて、悠長に日記など書く気になれないときがある。日記で扱っているテーマは、大体において平安を取り戻したときのテーマで、本当に落ち込んでいるときには、恐らくこういうテーマについて書く気にもならないだろうと思う。だから病院で、切羽詰まった気持ちになっているときは、日記も書いていないし記録も残っていない。後日、平安を取り戻したときに書いたもののみである。

切羽詰まったときに、何を考え、何を頼りとしていたのか、死に直結する病が牙を剥き出して襲ってくるとき、どう戦ったのか思い出してみると、

①私は、常に神は、善意の方であることを疑わなかった。
②私は、冷静に考えて、本来滅ぼされる当然の立場であることをも同時に強く覚えた。

いろいろな聖書の箇所から、御言葉を与えられ、それにすがってきたけれども、上記①②に関連する御言葉が多いと思う。そして、ちょっと希望の兆し(病の回復)が見えてくると、①の方に傾き、悪くなると②の方に傾いてくるようである。

「イエスは悲しみもだえ始められた。...この杯をわたしから...」(マタイの福音書26:37、39)

「...一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」(同26:40)

「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、...」(同26:56)

「...イエスをむち打ってから、十字架に...」(同27:26)

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに...」(同27:46)

「イエスは、苦しみもだえて、...汗が血のしずくのように...」(ルカの福音書22:44)

「...父よ。わが霊を御手にゆだねます」(同23:46)

「...こんな罪人の私をあわれんでください」(同18:13)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

「罪を赦し、...きよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5:15)

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。