2016年7月31日16時27分

なにゆえキリストの道なのか(51)何でも神のせいにして自分の主体性がなくなるのではないか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

神を認めたら何でも神のせいにして自分の主体性がなくなるのではないか、自分というものがなくなってしまうのではないか。

人は自由意思を与えられていますから、悪をなすことも、神に背くことも、神を否定することさえもできます。そのような人は、往々にして、他人がどうであるから、社会がどんな状態だから、時代がこうだからといった非主体的な理由により、あるいは流され、あるいは欲望のままに生きています。

しかし、人はキリストの神を信じるとき、罪という主人から解放され、聖霊の導きに従うようになります。それは、自我でなく、神の御心を中心として生きる生き方になります。悪に向かう主体性よりも、善に向かう服従の方がよくはないでしょうか。

リンカーンは主体性なく生きたでしょうか。キリストの神を信じる信仰によって、人が人を奴隷化するのはその御心でないと確信して、奴隷解放のために政治をしました。いくら反対が多くても、それが内戦にまで発展しても、信仰による確信の通りやり遂げました。これは、決して主体性のない生き方ではありません。

シュバイツァーは、一流の神学者で一流のオルガン演奏家でしたが、アフリカ住民への医療奉仕のために、コンゴの奥地へ赴き、その任務に専心して半生を過ごしました。これも、主体性なくしてはできません。

神を信じる人は、大なり小なり、有名、無名を問わず、神の前で決断して意志的生き方をしようとします。まさに、主体的生き方を目指しているのです。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ