2016年7月28日19時58分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(78)どんな時でも栄光は神に 米田武義

コラムニスト : 米田武義

どんな時でも栄光は神に

先日、天候も良かったし、以前から一度参加したいと思っていた家庭集会に出る機会を得た。10人余りの小さな集会であり、楽しくリラックスできたけれども、なぜかしらちょっとだけ緊張があった。これは何から来る緊張だろうかと考えてみた。

先日礼拝の時に、簡単な感謝のあいさつをしたが、何も緊張せず、非常に落ち着いて話せた。また、壮年会に数回出席しているけれども、毎回何の緊張もなく、報告したり感謝したりしている。

なぜ、家庭集会は多少なりとも緊張するのだろうか。本来なら、礼拝とか壮年会よりもリラックスできるべき会であるはずなのに。

リラックスしすぎで、心の準備ができていないのであろうか。そうではなく、出席する人によって、会の大小にかかわらず、心理状態が変わるのであろうか。

落ち着いて、どんな時でも十分な呼吸をし、正しい姿勢をして話しただろうか。私は、どんな時にも神の栄光を現すことができるように、普段から姿勢や呼吸に気を付けているだろうか。

小さい集会だからといって、等閑(とうかん)にすべきではない。

ダビデがその時のために、常に楽器を奏でる練習をしたように、コツコツと普段から日常生活の中で練習して、その日のために備えるべきである。

しかし何よりも大切なのは、自分のためではなく、神の栄光を現すためにすることである。壮年会や礼拝の時は、はっきりと神の栄光のためにしたことであった。だから神が支えてくれ、堂々と神の栄光を現すことができた。家庭集会では、この点が希薄であった。

「兄弟を憎む者は、・・・自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」(Ⅰヨハネ2:11)

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。