2016年5月19日07時44分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(68)金のようになって出てきたか 米田武義

コラムニスト : 米田武義

金のようになって出てきたか

私は最近、驚くほど自分が変わったなあと思う。例えば、金に対する執着心がなくなったように思うことがある。

私は自分名義のもの全てを康子名義にしたが、康子が金の奴隷になり傲慢(ごうまん)になっても困るから、何らかの大義名分をつけて、康子名義にするようにしている。8割くらいは移したと思う。家事について、自分だけが働き相手が遊んでいても平気になっている。

人との交わりにおいても、以前は用件以外にはあまり深入りせず、さっさと引き揚げていたが、誠実な心で話をすることが楽しみになっている。神様が機会を作って引き合わせてくれたのであるから、当然であるといえる。

教会や集会には、心より行きたいと思ったことは、数えるほどしかなかったが、今は心から行きたい。そして人と交わりたい。自分の意思や努力ではなく、自然に起こってきた変化なので、神様が働いてくれたのだと思う。

賛美をしたい気持ちに駆られる。これは入院していたときから続いている。パウロとシラスが、牢獄の中で賛美し、他の囚人が聞き入っていたのと違い、私の場合は誰も聞いてくれていなかったが楽しい。

私が救われたとき、聖歌も一役を担っていた(404番)ので、聖歌を賛美するのを神様が喜んでおられるのかもしれない。自由な時間があるときは、自分の趣味、英語などにまず心がとらわれ、そちら第一に時間を費やしていた。今は本心、聖書をいろいろ読んだり、調べたりする方が楽しみである。結果的に、それに費やす時間の方が多くなっている。

お祈りについては、何か重大なことがあると2人で共に祈ったりしたが、ほとんど毎日するのは食事の時のみ、それも本当に形だけのものだった。今、早朝まだ暗い時に、30分ぐらいであるが、祈りの時、シィーンとした中で行うのは本当に楽しみである。

以上、まさに“金のようになって出てきた”ように見えるが、深いところでは何も変わっていないと思う。いくら砕かれても自我が強く残っており、ささいなことで腹を立てたり、むかついたりするのはその証拠である。良い子ぶっても罪人は罪人であり、その悪癖、習性は、神にその都度赦(ゆる)していただくほかない。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。