2016年4月14日10時24分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(63)とりなしの祈りをしたいとき 米田武義

コラムニスト : 米田武義

とりなしの祈りをしたいとき

実際には、どのようにとりなしのお祈りをしてよいか分からず、妻に聞いたら、リストアップしてお祈りの時、目を通すのだと言った。他の聖書に関するハンドブックを読んでみたら、同じことが書いてあった。

そこで私も倣ってリストアップしてみた。家族単位で約50、人間単位にすると100人足らずであったが、対象とする人や目標が明瞭になって、スッキリと祈れる感じがする。

しかしこれはあくまで、比較的最近付き合っている人のみで、長く交わりの途絶えた人などは含んでいない。これらの人々の中には、一期一会のような、今思えば非常に貴重で忘れ難い人も多くいるが、祈りという対象からは、目標がはっきりしないので外してある。

しかし、今日私があるのは、こういう人たちの与えてくれた多くの知識、知恵の集積であって、本当に感謝である。

リストアップすることのほかに、朝一番に、目が覚めたときが私には良いように思える。シーンという音が聞こえるのみの朝は、頭もスッキリしていて集中できるので、最適であると思う。

言うまでもなく、お祈りは霊と霊の交わり、私の霊と神の霊との交わりであるから、私のような俗人には、騒音のある所では霊的交流ができにくい。物理的な理由からも、静かな所が良い。

人間は、形を持ち、色があり、匂いがあり、音を発し、重さを持ち、霊の世界のことなどほとんど知らない。書物などを通じて、ほんの少し垣間見ることができるのみである。

ほとんどの人が霊界などは知らない。そういう世界の神と交わるというのであるから、いろいろ条件、環境を整え、少しでも受信状態を良くしておかねば受信できない。

ラジオの周波数でも合わなければ受信できない。神は最高級の受信機を持っているが、私たちのは感度も最低のものであるから、よほど心を澄ましていないと聞き取れないであろう。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)

3番目に助けとなるのは、霊的な人が霊に打たれて書いた聖書の御言葉がある。時を隔てても、御言葉は実に生き生きとしている。

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。