2016年4月7日20時10分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(62)神様に甘えることは可か 米田武義

コラムニスト : 米田武義

神様に甘えることは可か

英会話に興味を持ち、NOVAに通い始めて十年余になる。その間、多くの外国人(主としてUSA、CA、AUST、NZ、UKほかであるが)に出会い、特定の場における交流とはいえ、知り合えたことは素晴らしいことであった。今まで全く知らない世界が広がり、充実した旅をしているようなものだと思う。

交わった人も数百人に及ぶと思う。いろんな人種、国籍の人がいたが、共通して言えることは、彼ら、彼女らは、甘えた精神を持っていないということである。『「甘え」の構造』(土居健郎著)という本が出版されるくらい、日本人には甘える性格があるようだが、彼らにはほとんどないように見受けられる。

しかし私は、人間は根本的には皆、似たり寄ったりであると思う。人種、国籍、性別などによらず、いかに育てられたかによって、大人になっても人に甘える性質が残るのだと思う。

子どもの時に溺愛されたり、したい放題にさせてもらったりして育った人たちは、大人になっても、自分の周囲の人はそういう類の人であるというふうに見る。甘えて当然、という態度が出るのは当然である。

甘えるというと聞こえは良いが、大人になって出てくる甘えは、犯罪、殺人等々に結び付きやすい厄介な習性である。こういう罪と結託しやすい性質は、幼少の頃に摘み取られることが望ましいことは、言うまでもない。

私たちは、神に甘えることはできるのであろうか。もちろん、前述したように、罪と結託しやすい甘えはできないけれども、聖書にはある条件のもとで、できると書いてある。それは、私たちの願いが、キリストの願いと同じ性質のものであるとき、という条件である。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」(ヨハネ14:13)

生まれつきの人間の持つわがままな甘えではなく、生まれつきのわがまま故の罪ならば、ありのままをさらけ出すとき、神様はこの種の甘えを許してくださる。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

甘えることと、それがかなえられることはまた別である。

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。