2016年3月31日22時14分

死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―(61)成長しない成長 米田武義

コラムニスト : 米田武義

成長しない成長

昨夜1時ごろ、怖い夢にうなされて目が覚めた。私にとっては驚きであった。というのは、この数カ月、怖い夢を見たことがなく、平安で温かい夢しか見なかったからである。

神様が私を心の内から変えてくださったのだと信じていたからである。しかし、この世に生きている間は、罪とは決別することができず、時に夢に出てくるのは仕方ないといえる。

親鸞は修行しても修行しても、罪(煩悩)から離れることは不可能であることを悟り、ただ念仏を唱えて恵みを請う他力本願の方法を取った。パウロも聖書の中で、罪の力が望まないことを望むようにさせる、と言っている。

私はこのような高僧や高聖ではなく、いわゆる修行などとは縁のない者であるが、私のような者にとっては、罪の心がもっと多く残っているのであろう。クリスチャンとしていろんなことに通じるということと、成長するということとは別である。

もちろん、生きている間は漸進的、継続的な聖化はあるけれども、罪は生涯消えないという点から見れば、程度の問題となる。神の目から見れば、成長という言葉は無に等しいかもしれない。

ルカの福音書18:10~13にある、パリサイ人と取税人の話(ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」)は、2人の人の話ではなく、私たち一人一人が持っている二つの心を表しているのであろう。

クリスチャン生活を長らく続けていると、いろんな知識や習慣に慣れ親しみ、その内容にも通じてくる。するべきこともそつなく行えるようになってくると、自分は成長したクリスチャンであるという思いが育つ。

そしてパリサイ人の心境に、知らず知らずのうちになっている。信仰を初めて持った頃の謙虚な心、取税人のような心は、いつの間にか失せている。本当の成長とは、成長していないことが分かることではないか。

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米田武義

米田武義

(よねだ・たけよし)

1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術国内留学生)で学ぶ。国土防災技術を退職し、米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』。