2015年12月10日17時47分

律法と福音(21)血の歴史・血の福音 山崎純二

コラムニスト : 山崎純二

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖(あがな)うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である」(レビ記17:11)

前回言及した通り、彼は、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」のであり、主は私とあなたを愛するゆえに「私たちのすべての咎を彼に負わせた」のですが、それは全身から「血」を流すことによりなされました。「血」の犠牲を払って私たちを贖うことは神様の御心であり、あらかじめ定められていたことだったのです。その型(モチーフ)は直接的また間接的に、キリスト生誕以前に書かれた旧約聖書に数多く描写されています。

原福音

創世記の最初の箇所には、人類が初めて罪を犯し、楽園を追放されるという悲しい物語がつづられていますが、同時にそこには「原福音」と呼ばれる希望も描かれています。すなわち「女の子孫」が誕生し、人類をだました蛇(サタン)の頭を砕くという宣告です(創世記3章、参照・黙12:9)。その時神様は、罪を犯したアダムとエバを放ってはおかれず、皮の衣を作ってくださいました。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)

なぜ神様は、罪を犯したアダムとエバのために皮の衣を与えられたのでしょうか? 直接的には書かれていませんが、皮の衣を作るためには必ず動物の血を流してほふらなければなりません。そして神様はそれをもって2人の裸の恥(罪)を覆ってくださったのだと読むことができます(参照・黙示録3:18)。

カインとアベル

このアダムの長男としてカイン、次男としてアベルが誕生します。やがて彼らが成長して大人になると、彼らは神様にささげものを持ってきます。カインは土を耕す者でしたので作物を、アベルは羊を飼う者でしたので羊を神様の前に持ってきました。ところが神様はアベルとそのささげ物とに目を留められ、カインのそれには目を留められませんでした。

その理由は、「アベルは彼の羊の初子(ういご)の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」(創世記4:4、新改訳[第二版])ためと聖書に書かれています。このことに腹を立てたカインは、アベルを野に誘い、そこで弟を殺してしまいます。この事件を私たちはどう読み取ったらよいのでしょうか? 実はこの殺されたアベルも、彼がささげた羊の初子も、キリストの型なのです(ヘブル12:24)。ゆえに、神様はアベルとそのささげ物とに目を留められたのです。この箇所では、義人が罪人に殺されるという型と子羊が神にささげられるという型が示されています。黙示録を見ると、キリストは「ほふられた小羊」という名で呼ばれています(黙示録5:12)。

アブラハムとイサク

その後、時代が少したったのち、神様はアブラハムという神を恐れる人物に対して、突然このようなことを言われました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)

この言葉に従順して、わが子の血を流そうとしたアブラムを神は止められ、代わりに雄羊をいけにえとするために与えてくださいました。そしてイサクの代わりに雄羊の血が流されました。

なぜ神様は、アブラハムにこのような無茶な要求を突き付けたのでしょうか? 実は聖書には、アブラハムは「神の友」と呼ばれたと書かれています(ヤコブ2:23)。友とは、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣けるような存在ですが(ローマ12:15)、神様はご自身が独り子の血を流させなければならないという苦しみの一部を、友であるアブラハムと共有されようとしたのだと思います。結果的にはイサクを死なせはしなかったので、その心情のみを分かち合ったことになります。アブラハムも、神様は死者をも生かすことができると深く信頼していたので、この神様の気持ちに十二分に答えました(ヘブル11:19)。とにかくここでは、「大切な独り子の血を犠牲としてささげる父」という「型」が示されました。

過越の子羊

モーセの時代になると、イスラエルの人々はエジプト人に奴隷として扱われ、毎日ひどい重労働を課せられるようになっていました。神はイスラエルの人々を解放するために、エジプトの全家に死をもたらしました。すなわち、「滅ぼす者」を送られ、その長子を全て殺されたのです。

ただイスラエル人には、子羊をほふりその「血」を門に塗ることにより、災いを過ぎ越させるように命じられました(出エジプト12章)。現代においても彼らはその日を記念として覚えていて、「過越の日(Pass over)」として休日にしています。

なぜ愛の神様が非情にもエジプトの長子を殺されたのかという神学的考察には踏み込みませんが、ここでは「子羊の犠牲の血」が「死と災い(神の審判)」を過ぎ去らせたという「型」を見ることができます。キリストの十字架の血は、罪の故に「死と災い(神の審判)」を免れ得ない私たちを覆い、それらを過ぎ去らせてくださるのです。

いけにえの血

神様はエジプトを出たイスラエルの人々に、より具体的な「罪のためのいけにえ」「贖いのためのいけにえ」「和解のためのいけにえ」などの方法を教えられました。その中で、いけにえは傷のないものをささげるよう命じられました。また全ての初子は、神様のものとされました。聖書を確認してみましょう。

「彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭」(民数記28:3)

「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである」(出エジプト記13:12)

初子というのは長子のことですから、これらは全て傷も汚れもない神の長子であるキリストの「いけにえの血」の型なのです(Ⅰペテロ1:19)。モーセ五書に限らず、聖書全巻はキリストについて書いてあるのですから(ヨハネ5:39)、動物の「いけにえの血」がささげられる全ての聖書箇所はキリストの型であるとして読んで、大きく間違いではありません。

きよめの血

動物の血は、人々や聖所の器具にふりかけられ、きよめの役割を担いました。聖書を確認してみましょう。

「また、和解のいけにとして雄牛を主にささげた。・・・モーセはその血を取って、民に注ぎかけ・・・」(出エジプト24:5~8)

「モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした」(レビ8:15)

これらの行為の意味を新約聖書では簡潔に解説しているのですが、以下の一文です。

「モーセは・・・子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ・・・・また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう」(ヘブル9:19~22)

このように、血にはきよめの働きがあるのです。そして、キリストの血によって、神は私たちの罪を赦(ゆる)すだけでなく、私たちをきよい者としてくださるのです(ヘブル10:22)。

和解の血

旧約の時代において、血の役割はそれだけではありませんでした。前述したように、いけにえは和解のためにも用いられました。「和解」というと、人間同士の争いやこじれた関係を修復するようなことが思い浮かびますが、「和解のいけにえ」はあくまで主にささげられたものです。罪の故に神との親しい関係を損ねてしまった私たちのために、神はキリストを与えてくださり、和解の手を指し伸ばしてくださったのです。このことは本来、罪を犯した私たちが神の前に涙を流して懇願すべきことですが、反対に神様は私たちを愛するゆえに、自ら和解を望んでくださっているのです。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)

王たちの時代

その後、時は下って王たちの時代になると、非常に多くの動物の血を流して神の前に祈るようになります。ダビデ王の子、ソロモンは、一度に千頭ものいけにえをささげました。

「ソロモンはその所で主の前にある青銅の祭壇の上に――その壇は会見の天幕の所にあった――いけにえをささげた。すなわち、その上で一千頭の全焼のいけにえをささげた」(Ⅱ歴代誌1:6)

しかし、いかに多くの動物の血を流しても、毎年のように繰り返してささげても、動物の血はあくまで影であり型なので、それにより人の罪が赦されることも、きよめられることも、神と和解することもかないません。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。・・・雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」とヘブル10:1~4に明記されている通りです。ただ神の独り子キリストの貴い血だけが、一度にそのことを完全に成し遂げてくださったのです(ヘブル9:26)。

【まとめ】

  • 神は、罪を犯したアダムのために、動物の皮で衣を作り、その身を覆われた。
  • 義人アベルは最良の羊を神にささげ、カイン(罪人)の暴力により殺された。
  • アブラハムは神に命じられて、大切な独り子の血を犠牲としてささげようとした。
  • モーセの時代に、「子羊の犠牲の血」は「死と災い(神の審判)」を過ぎ去らせた。
  • いけにえの動物は、傷のない初子をささげるよう命じられた。
  • 動物の血は、罪の赦しと贖いのため、きよめのため、神との和解のために流された。
  • これら全ては罪も汚れもない、神の長子なるキリストの「血」の型である。

【考察】

  • カインがもしも、最良のものを自分自身で持ってきていれば、カインの農作物のいけにえは受け入れられたのでしょうか?
  • 上述の例以外に、キリストの血の犠牲を象徴しているものを挙げてみましょう。

<<前回へ     次回へ>>

◇

山崎純二

山崎純二

(やまざき・じゅんじ)

1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。米国ではクイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。ツイッターでも情報を発信している。