背徳の街のマリヤ(4)あたたかな光

2019年4月7日22時04分 コラムニスト : さとうりょうこ 印刷

「あなたは誰ですか」。マリヤはうなされるようにそう言って、寝返りを打ちました。マリヤはあの朝、やっとのことで立ち上がり、自分の部屋に戻ったはいいけれど、それからもう10日間、高熱に侵され続けていたのです。

悪魔はマリヤの上に覆いかぶさり、マリヤを責め立てておりました。「神がお前を愛しているだと? このみすぼらしい女を?」。マリヤは汗だくになりながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りました。

「お父さんを裏切るつもりはなかったのです。でも確かに、声がしたのです」。「声だと? どんな声だ」。マリヤは息も絶え絶えに伝えました。「このみすぼらしい私に、『立ち上がりなさい』と言ってくれた方がいるのです」

悪魔は大きな声で笑いました。「そうかい。それは俺だ」。マリヤはすすり泣きました。「いいえ、違う気がするのです。それは、天の高みから本当の愛でもって語られた言葉のようでした。その声は、このみすぼらしい女である私を、まるで愛くるしいわが娘のように想っている響きでした」

悪魔はマリヤの首に手をかけ言いました。「だったらますます私ではないか。どれほどにお前を愛しているか、お前はよく分かっているね?」。悪魔の目からは、粘液のような涙が伝っておりました。「お父さま、ごめんなさい。私・・・もう一度、あの方の声が聴きたいのです」

マリヤはもうろうとして思い出しておりました。確かに聞こえた天からの音楽を・・・。それはこの世にあるどんな音楽とも違うものでした。純白の、穢れのない世界の歌でした。そして、「立ち上がりなさい」と言ってくれたあの方は、マリヤがもう一度立ち上がれることを、信じてくれた方だったのです。

「あの方のもとへ行きたい」。マリヤはそう思っていました。「仕方ない」。そうつぶやくと、悪魔はギリギリと爪をマリヤの首筋に立て、マリヤの命の灯を消そうとたくらみました。

その時、小さな部屋の向こう、空の向こう・・・いいえ、もっと天高くから、光のように言葉が部屋に差し込んだのです。

(求めよ、そうすれば、与えられるであろう。)
(捜せ、そうすれば、見いだすであろう。)
(門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。)※1

マリヤの心臓は高鳴り、荒い呼吸は言葉となりました。「求めます、捜します。そして門をたたいて見せましょう。・・・きっと」。心臓は破裂せんばかりに、どくどくと脈を打っています。心臓に深く食い込んだ、悪魔のかぎ爪のあとが、癒え始めたのもこの時でした。

マリヤの耳には、遠く天の音楽が聞こえていました。それは、美しく優しい真綿のような響きで、マリヤをくるんで離さないかのような、ゆりかごになりました。マリヤの心臓に、じかに言葉が響きました。

(わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。)※2

その言葉は光となって、マリヤの見つめるかなたの空に十字を描きました。マリヤは十字の光を見つめ、いつかお父さんが言っていたことを思い出しました。

「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」※3

父親は食事の前に分厚い本を開き、そのように読みました。「おとうさん、それはなに?」。マリヤは父親の本に手を伸ばして聞きました。

「お父さんが読んでいる本によるとね、神様は、言葉でこの世界をお造りになったんだって。・・・『光あれ』と神様が言ったから、この暗闇の世界に光が生まれたというんだ。闇を照らす光とは、真理であり、愛であり、神様そのものだと言うんだよ」

それは、マリヤがまだ3つの頃の記憶でした。父親と母親はこの頃から、ののりしあったり、物をぶつけあったりするようになっておりました。騒がしく、心休まらない暮らしでありながらも、時折、そんな騒がしさが息をひそめた団らんの夕べもあったのです。

小さな食卓にはランプが灯され、オレンジ色の光がマリヤをあたたかく照らしておりました。「ことばでせかいができたの?」。あどけない口調でマリヤは父に聞きました。「そうだよ、マリヤ。だから言葉を大切にしなければいけないよ。言葉は、命と同じくらいに重いんだからね」。そう言って、マリヤを膝にのせてくれたのです。テーブルには、お母さんの手作りのシチューとパイが湯気を立てておりました。久しぶりに贅沢な料理が並び、微笑があり、幸せな夕べでありました。

マリヤが求め続けた、「あたたかな光のともる家」・・・それは過去の中に、記憶の中に・・・怒号の鳴り響く家庭の中であっても、確かに存在していたのです。

その頃、マリヤの勤める店のオーナーは、常連客たちと酒を浴びながらうわさ話をしておりました。「マリヤはもう10日も熱が下がらないんだ。この上に住ませているんだけどよお、店にも出られないんじゃ、とんだ迷惑ってもんだよ」。そう言って、ふとっちょのおなかをかきました。常連客も顔を見合わせ、「俺たちもうわさをしていたんだけどさ、あれはまずい病気かもしれないぜ」と眉間にしわを寄せて見せます。

「そうそう・・・流行り病だったらここで安心して飲むこともできねえな」。「風のうわさで聞いたんだけど、隣町でも相当悪い病気が流行して、何人も死んだっていうぞ」

太っちょのオーナーは、大きくため息をつきました。「かわいそうだけどよ、俺も慈善事業をしているわけじゃないんだ。出て行ってもらうしかないかもしれん。でも言いにくいんだよなあ」

「そうそう、迷惑だってなかなか言えねえもんなあ」。「でも、そうとうふしだらなこともしていたと聞くぞ? 自業自得と言えば自業自得じゃねえか?」

怒りたけった悪魔もその場に座して、オーナーや常連客の心を鼓舞し、不安をあおっていたことは言うまでもありません。「流行り病だったら・・・」。「そうだよな。同情しているうちにこっちも危ないってもんだぜ」。「だからって身一つで追い出すわけには・・・」

この街では、昨日の友が今日裏切ることも日常茶飯事のことでした。薄っぺらい言葉でつながった人たちは、薄っぺらい言葉で遠ざかります。そして心をちくりと痛めては、あわれみすら楽しむのです。

「あわれな子だよ」。「何とかしてやりたいんだけどなあ」。皆で涙をにじませながらも、なぜかお酒がいつもよりもおいしくて、今夜はいつもよりも深酒です。

水を飲むために階段を伝い下りていたマリヤは、そのうわさ話を聞いていました。心がひりひりと痛み、同時に自分もそんなうわさ話をよく楽しんでいたことを思い出しました。

こんなにやつれ果ててようやく、高慢で残酷な自分の姿を鏡越しに見たかのようでした。マリヤは小さく後悔して、部屋に戻りました。水を飲みたい気持ちを我慢して、ギュッと目をつむりました。

罪に落ちぶれてしまった自分には、もうこれ以上生きている資格もないような気がしました。その時、(マリヤ、)と呼びかける声が響きました。その言葉は、熱くたぎる血のように、マリヤを想って熱心な愛の声色でした。

(人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した。)
(悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない。)

その言葉はマリヤを責め立てるのではなく、マリヤを包み込む優しさを持っていました。

(しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。)※4

マリヤははかなく聞きました。「光・・・私にそんなところへ行く資格なんてあるかしら」。天からは、慈愛に満ちたまなざしが注がれているようでした。そのまなざしは、マリヤを信じてくれている、父性に満ちた眼差しでした。

マリヤはだるい体を起こし、咳き込み、時折うずくまりながらも、ここを出て行く支度を始めました。もうここにはいたくないと思ったのです。震える手で、カフェのオーナーに向けた書置きもしたためました。

「本当にお世話になりました。私は働けなくなったのでこれ以上置いていただくわけにゆきません。行くあてはありますから、安心してください。全部荷物を持って行くことはできませんから、残した持ち物はどうか誰かが使ってくれますように。サテンのドレスやビーズのバッグも残して行きます。誰かが気に入ってくれたらあげてください」

そして、自分がこの街に来たときに持ってきた荷物だけ、リュックサック一つにまとめました。高熱で頭がぼうっとします。その隙に悪魔の言葉が入り込みます。「今ならまだ、戻れるぞ。俺の元に戻るなら、また働けるようにもなるだろう。パールの靴も買ってやろう、大好きな豆のスープも、ナッツのパンも食べさせてやろう。・・・ここを出て道端で死ぬつもりか? それは忍びないことだ・・・」

マリヤは頭をブンブン振って、悪魔の言葉を振り払いました。行くあてなどないけれど、のたれ死んでしまうかもしれないけれど、もうここにいることはできない、そう思っていました。

「哀れな娘だね。お父さんの愛が分からないというんだね」。悪魔はマリヤの肩に手をかけて、マリヤの心を取り戻そうとその頬をマリヤの頬に近づけました。マリヤは唇を動かして、「いいえ」と言いました。

そして、天を仰ぐと、愛しい方に語りかけるように、言いました。「私はどこへ行って、あなたのみたまから離れられましょうか。私はどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内で私を組み立てられたのですから」※5

自分の口からふいにあふれたその言葉は、マリヤの魂に命を与え、心を生き返らせてくれるようでした。痩せた足や腕にみるみると血が通い、強められていくように感じました。とても具合は悪いけれど、今ならどこへでも行ける気がしました。

マリヤはリュックサックを背負って、忍び足で階段を伝い、カフェのあるこのビルディングを出て行きました。(つづく)

<引用聖句 口語訳聖書>
※1(マタイ7章7節)
※2(ヨハネ8章12節 )
※3(創世記1章1~2節)
※4(ヨハネ3章21節)
※5(詩篇139篇7、13節)

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さとうりょうこ

1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。

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