聖書通読は「神と良き時を過ごす」こと 福井誠

2019年1月3日23時08分 執筆者 : 福井誠 印刷
Facebookでシェアする Twitterでシェアする
関連タグ:聖書通読福井誠
+聖書通読は「神と良き時を過ごす」こと 福井誠
- 広告 -

1. まずは始めよう

聖書通読が続かないと思う人は多いことでしょう。私もその一人でした。かつて、何度試みて続かなかったことか。しかし、続かなくても諦めないことです。諦めずにチャレンジし続ければモノになるものです。

大切なことは、聖書通読のやり方の本をいくら読んでも、身に着かないということです。それは筋トレの方法の本を読みながら、筋トレをせずに、筋力を付けようとするようなものです。まずはやってみるのです。キリスト教書店には、聖書通読を助けるさまざまな本が売られています。

聖書通読の手引きとして、月刊誌として売られているものの老舗的存在は「みことばの光」だと思いますが、その他にも「アパ・ルーム」「デイリーブレッド」「マナ」「Clay」など、最近はたくさんのものが出版されています。私が信仰を持った頃は、「みことばの光」しかない時代で、「みことばの光」も読みにくかった記憶があります。そこで当時は、単行本の手引きをよく使いました。榎本保郎の『一日一章』(旧約、新約)、内村鑑三の『一日一生』、L・B・カウマンの『山頂をめざして』『荒野の泉』、そして、F・B・マイア―の『きょうの力』でしょうか。それが続いたり、続かなかったり、そんな時をよく繰り返していました。

2. 途中で止まっても気にせずに再開し、続けよう

しかし、人生をトータルで考えると、断続的に継続ということもあるのではないか、一度中断して、そのお休みの期間が長くなったとしても続かなかった、と思わずに、そのまま続ければよい、と考えるようになった時があります。そして、高校時代の教師が「3カ月続ければ習慣になる」と語っていたことを思い出し、聖書通読に本格的に取り組み始めたのが約20年も前のことです。それから1日も休まず、今日まで教会の信徒さんに、その御言葉の恵みをメールで配信し、分かち合ってきました。その後、ブログでインターネット上に公開するようになってからは、もう10年以上になります。

続かない、続けられないと思っていたのが、いつの間にか、これをしなければ1日が始まらない、落ち着かない、日常の一部というぐらいになってしまうのですから、本当に不思議なものです。神様の大きな憐(あわ)れみと助けあればこそでしょう。そこからまず言えることは、聖書通読を続けるコツは、たとえしばらく休んでしまった、と思うことがあっても、あまり気にせずに、そのまま継続していくことです。そして、聖書を読む楽しみを見つけるように努めることです。

3. 神と良き時を過ごす(神との語り合いの時を楽しもう)

聖書通読には、幾つかの方法があるようです。毎日聖書を読む、聖書同盟の方法があります。「みことばの光」的通読方法の勧めです。それによれば、①神のもとに来る、②読む、③神と話し合う(対話する)、④応答する、という4つの段階を踏んで、神との時間を意義あるものとすることを目指すわけです。

しかし考えてみれば、これは特別なことではありません。神の言葉を読むというのに、何かかしこまって読むというのではなく、自然に神の人格と存在を認めて、神の言葉に耳を傾けていくだけのことです。

そこで私がこの20年、聖書通読を続けてきてようやく分かってきたことは、「神と良き時を過ごす」という言い方にすべて集約されることです。つまり、神と語り合い、その時を楽しみ、喜ぶことが継続の秘訣であることです。

けれども多くの聖書通読の勧めは、そのようには教えていません。厳密に釈義をして、聖書を深く理解することはもちろんのことでしょうが、その次のステップとして、「みことばの光」的には神と話し合う(対話する)、あるいは加藤常昭先生流に言えば「説教黙想」、カトリック長崎大司教区の勧め方で言えば聖句の黙想でしょうか、あるいはフランシスコ会の言い方で言えば「観想」となるのか、要するに第2のステップは、深く聖書の言葉を思い巡らし、教えられる、気付きを与えられるという、知的営みが中心となるのです。

12世紀の修道院に発した「レクティオ・ディヴィナ」という祈り心を持って聖書を読む方法は、よく取り上げられます。しかし日本人の場合、禅の影響のためなのか、ともすると、山中に隠遁(いんとん)して聖書に向かい合うことがよいのだ、という方向へ傾いていくことが多いように思います。結果、聖書の黙想をすればするほど、世間ずれし、それができる本人は満足していても、それだけのこととなってしまうことがあります。できる人は「できて素晴らしいですね」ということですが、できない人は「聖書という難しい書物を理解しようと努めたが、宗教生活はなかなか自分にはなじまないなあ」と、何か変なところで悩んでいるように思うのです。私も長い間、そんなところをさまよっていましたが、エルサレムに3度目の旅をしたとき、ユダヤ人との交流を得て教えられたことがありました。

4. 御言葉はわが喜び!(シムハット・トーラー)

ユダヤ教には「シムハット・トーラー」という祭りがあります。それは、トーラー(旧約聖書のモーセ5書)をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で1年かけて読んでいくサイクルの終わりと始まりを祝う祭りです。何と聖書通読の始めと終わりにお祭りがあるのです! 素晴らしいではないですか。その時には、申命記33章1節から申命記の最後までと、創世記1章の2カ所が読まれます。トーラーは本ではなく巻物状になっているので、申命記の最後の部分が読まれた後、2、3人がかりで巻物をゴロゴロと壇上で、創世記1章の最初まで巻き直します。そして、皆が賛美を歌う中、男性の代表者がシナゴーグにあるトーラーの巻物を担いでシナゴーグをぐるぐると回るのです。もちろん、超正統派、正統派、それぞれでやり方は違いますが、それは喜びと楽しみの時で盛大に祝うのです。

超正統派のユダヤ人の町メアシャリームのお店で、その様子を彫金で額にしたものがあったので買ってきました。聖書通読マニアには欠かせない一品! 思わず衝動買いです。トーラーを持ちながら、皆で踊って歌って楽しむ。また、そこに刻まれているヘブライ語もいいのです。どうやら「絶えず喜びの内にあることは、大きな(重要な)戒めである」と書かれているようです。図は、シムハット・トーラー、つまりトーラーの喜び、律法の書の通読の完成と新しい開始の喜びを描いており、文字は、その神の御言葉を味わう喜びの中に日々歩みなさい、と言っている。図と文字が掛け合わせのようになっているのです。

そこで、思ったわけです。やはり聖書を読むことは、情緒的な部分で、喜びとなり、本当に「神と良き時を過ごす」ことにならない限り、聖書通読は続かないし、神と共に生きるという姿勢も育たない、と。実際クリスチャンの生活の本質は、喜びです。クリスチャンらしい生き方を心掛ける修業的な生活ではなく、神が書かれたものを小難しく理解しようとする営みでもない。むしろ、私のために十字架で苦しんでくださった、死んでくださった、愛してくださったイエス様、ごめんなさい、ありがとう、というところから出発して、キリストにあって神の子とされている祝福の日々を、御言葉を通して確認し、味わい、感謝し、喜ぶ日々を生きることが中心です。そこに、クリスチャンらしい生活態度も、振る舞いも自然に育まれるのです。何よりも、キリストの御言葉に表されたいのちに触れることが、ディボーションの本質です。

ですから、もし聖書通読を始めようとする人がいるならば、私は、レクティオ・ディヴィナを、聖書を深く読むためのプロセスとして採用するとしても、その形式をまねてよしとするのではなく、その本質的な考え方に沿っていくことをお勧めしたいと思います。つまり何よりも聖書を読み、黙想する時が、生ける神と共に膝を交えて語り、喜び、そして楽しみ、良い時となることを大事にするように心掛けることです。神様は冗談もおっしゃられるのですから、これは本当に楽しい時なのです。朝起きて、さあ、聖書を読みにいつもの所へ行こうと思って出掛けたら、何とそこに神様がうれしそうに待っておられる、と感じるようになったら、これはやめられないことでしょう。あるいは、聖書を読みながら、クスッと笑ってしまう経験をしてしまったら、これもまたやめられないでしょう。

5. 注解書は聖書通読の友

聖書通読の助けを求めて、本稿を読まれた方々に申し上げたいことがあります。それは、本稿はあくまでも、あなたが聖書通読を進めるきっかけにしかならないということです。これを踏み台にして、自分なりに神との良き時の過ごし方をつかんでみてください。そして、あなたが自分なりに神と本当に良き時を過ごし、神と共に生きる喜びを見いだすことができれば、それは、私にとっても喜びです。

ただ、私が聖書通読を勧めるに当たり、心掛けてきた読み方を最後に付しておきましょう。やはり聖書は全体を繰り返し読むこと、全体の光の中で個々の言葉や物語を理解していくことが基本です。実際、聖書の信仰に生きるというのは、聖書全体から教えられ、教えられたことに従って生きることに他なりません。そのためには、丹念に、丁寧に、聖書全体を読むことです。その際に、私が聖書学院の学生に勧めていることは、私の聖書通読ブログでも構いませんが、標準的な聖書注解を手に、それに基づいて聖書を読み進めていくことです。

福音派の人にとって標準的なのは、いのちのことば社の『新実用聖書注解』でしょう。そして一度目の聖書通読が終わったら、今度は別の注解書にチャレンジしてみる。例えば「新聖書注解」シリーズ、あるいは「ティンデル聖書注解」シリーズです。いずれ注解書を超えた読み方が出てくるはずです。カメのようにノロノロした進み方でも構わないのです。人生長いのですから、ただ1日1章は読み進めたいものです。

なぜ注解書なのかと言えば、私たちが聖書を読むに当たり、明らかにすべきことは、自分にとっての意味を先に考えるよりも、この聖書を最初に手にした人たち、例えばエレミヤ書であれば、エレミヤの肉声を聞いた人たちは、これをどう読んだかを理解する必要があるからです。その昔、聖書が書かれた時代の人たちは、これをどう読んだか。そこを踏まえて、自分にとってどんな意味があるのか、と二段構えで理解することなのです。

注解書は、そういう意味では、F・B・マイア―の『きょうの力』や榎本保郎の『一日一章』にはない詳しい情報を提供してくれます。また聖地旅行は、単なる観光だと考えている人もいるようですが、考古学的な発掘調査が進んだ今日では、博物館や発掘現場を訪れることで、聖書の書かれた背景をよく知ることができます。聖書の世界をリアルに感じることができ、当時の信仰者の状況について深い洞察が得られます。そういう意味で、聖書通読を続けようと思ったら、自分の心の慰めを求めるような読み方では決して続きません。むしろ、聖書の世界にどっぷり浸る、いや、「そんなことがあったのですか」「そうだったのですね」「おっしゃる通りです」と、神様の声が心に一つ一つ響いて、神様と心通わす良き時を過ごすことが大切なのです。

※ この文章は、福井誠牧師の聖書通読ブログ「旧新約聖書通読 パスタ―まことの聖書通読一日一生」の「はじめに」の内容を、許可を得て編集・転載したものです。

福井誠

福井誠(ふくい・まこと)

1961年、秋田県生まれ。高校卒業後、神学校へ。その後、医療技術短期大学で作業療法を学び大学病院に勤務。26歳で再び神学校に進み、東京・世田谷区の二子玉川で牧師として働き始め、現在に至る。玉川キリスト教会牧師、二子玉川聖書学院学院長ほか、さまざまなキリスト教団体で役職多数。

Facebookでシェアする Twitterでシェアする
関連タグ:聖書通読福井誠

関連記事

クリスチャントゥデイからのお願い

いつもご愛読いただき、ありがとうございます。皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは月間40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。

記事の一つ一つは、記者が取材をして書き上げ、翻訳者が海外のニュースを邦訳し、さらに編集者や校閲者の手も経て配信しているものです。また、多くのコラムニストや寄稿者から原稿をいただくことで、毎日欠かすことなくニュースやコラムを発信できています。

この日々の活動を支え、より充実した報道を実現するため、読者の皆様にはぜひ、祈りと共に、定期的にサポートする「サポーター」として(1,000円/月〜)、また単発の「サポート」(3,000円〜)によって応援していただきたく、ご協力をお願い申し上げます。支払いはクレジット決済(Paypal)で可能です。希望者には、週刊メールマガジンも送らせていただきます。サポーターやサポートの詳細、またクレジットカードをお持ちでない方はこちらをご覧ください。

  • 金額を指定:
  • 金額を選択:

教会の最新記事 教会の記事一覧ページ

主要ニュース

コラム

人気記事ランキング