心の中の偶像礼拝(マルコ12章35~44節) 山本隆久

2018年9月5日09時43分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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日本基督教団小高教会の付属幼稚園の園庭
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先週8月27~29日、日本聖書神学校同窓生研修会が福島県の被災沿岸地「浜通り」で開かれ、国道6号線に沿って、いわき市の常磐教会、南相馬市の原町教会と小高教会、浪江町の浪江伝道所を訪問見学しました。原町教会は保育園が併設されていて、90人ほどの子どもたちが通っています。園庭には、放射線量の測定をするモニタリングポストが置かれていました。震災後2年ほどは屋外で遊ぶことができなかったということです。現在は、園庭の除染が行われ、園庭で子どもたちが楽しそうに遊んでいましたが、屋外で遊ぶことができるのは園庭のみで、それ以外の所は、放射線量がまだ高いということでした。帰宅困難地域の家族が、周辺に移住していることもあって、園児は増えているということでした。

小高教会も幼稚園を併設しています。最近、帰宅困難地域の指定が解除されましたが、帰ってきている人々は少なく、小高幼稚園は、2011年3月11日に緊急退避したときの様子をとどめていました。保育室には子どもたちのひな祭りの絵が貼られており、カレンダーも当時のままでした。

浪江伝道所は、国道6号線を通行中にバスから見学しました。高い雑草に囲まれていました。

心の中の偶像礼拝(マルコ12章35~44節) 山本隆久
2011年3月11日のままの小高教会幼稚園の保育室。ひな祭りの絵が壁に貼られている。

宿泊したいわき市のかんぽの宿でテレビをつけると、地元のニュースは、原発事故被災関連のものがたくさんあり、まさに今も原発災害が進行中であることを実際に感じました。

若松栄町教会(会津若松市)の牧師のお連れ合いである片岡輝美さんが、講演をしてくださり、被災地における母親や子どもたちのための活動や、現地の困難な状況をお話しくださいました。驚いたのは、今、福島第1原発事故を世界の人々に知っていただくための子どものプログラムがあるということです。外国から子どもたちを招いて、福島第1原発の事故現場を見学させたり、事故現場を見学した福島の子どもたちを海外に行かせ、原発事故後の福島の様子をお知らせしたりするということでした。「原発事故は起きたけれど、私たちこんなに頑張っています」ということを海外に向けて発信するのが目的だそうです。子どもたちは英語で発表するのですが、原発事故で嫌だと思っていることや、否定的な感情などを書くと、先生が書き換えてしまうということでした。海外旅行に無料で行けるわけですが、福島第1原発を実際に見学することが条件で、子どもの安全を考えて躊躇(ちゅうちょ)される親も多いということでした。聞く耳を疑いました。

モニタリングポストも当初は米国製のものが設置されていたそうですが、表示される放射線量が多いということで、国産のものに変えられたということを現地の牧師先生が教えてくださいました。被災地で苦闘している兄弟姉妹を忘れてかけている自分に気が付かされた研修会でした。

心の中の偶像礼拝(マルコ12章35~44節) 山本隆久
日本基督教団原町教会(南相馬市)に隣接する原町聖愛保育園の園庭にあるモニタリングポスト

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコ12:35~37)

「メシアはダビデの子で、マタイによる福音書のイエス様の系図でもダビデの子孫として載せられているのではないか」という疑問が生じます。一体どのようなことなのでしょうか。

まず、この文脈から想定されるのは、律法学者たちは「メシアはダビデの子なのだから、ダビデより偉いものではない。ダビデも律法に従ったのだから、ダビデの子であるメシアは当然、律法に従ってこれを守らなければならない」と考えていたということです。つまり、「律法学者である私たちの考えと一致するのが本当のメシアである」という主張がなされていたということです。そしてこのことは、暗に律法学者たちの権威が、メシアよりも高いということを言っています。なぜならば、彼らが誰がメシアであるかを認定する立場にあるからです。

要は安息日問題と同じことが問題となっているわけです。「人の子は安息日の主である」とおっしゃったように、メシアであるイエス・キリストの権威は、律法の上にあるということです。

イエス様は「主は、わたしの主にお告げになった」という詩編の言葉を用いて、「ダビデが『私の主』と言っているのがキリスト、メシアなのだから、メシアはダビデの子ではない」と答えられています。つまり、メシアの権威は、律法よりも高いということを論証しています。

この視点に立って、マタイによる福音書の冒頭のイエス・キリストの系図を振り返りますと、確かにこのことがちゃんと踏まえられていることが了解できます。イエス様は、確かに法的には、ダビデの子孫、「エッサイの株より一つの若枝が生え出る」という預言者イザヤの預言を満たしていますが、同時に、聖霊によって身ごもったマリアから生まれており、生物的な意味での肉としてはダビデとイエス様は関係がありません。群衆がこのイエスの言葉を喜んで聞いたということは、律法学者たちの教えによって、彼らが抑圧され辟易していたことを示唆しています。

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 (マルコ12:38~40)

律法の大切さを教えながら、あるいは律法を教える立場にあるために、律法学者は律法をお与えになった神よりも偉いかのような錯誤に陥りがちであり、実際に陥っていたことが指摘されています。牧師などキリスト教会の教職者も、同じ過ちに陥る危険に常にさらされています。ガウンは確かに「長い衣」ですし、あいさつされなければ無視されたと思いますし、会堂では前の席に座らされますし、宴会の場でも教会関係のものならば上座を占めます。そして、悲しいことにそうでないと、無礼な扱いを受けたかのように思い込みます。人々に自分が認められるか否かが、ここで問題となっています。それが本当に大きな問題であり、罪の実態を示しています。

そして、私たちの行いが人に見られることを目的としているのか、神様がご覧になっていることに信頼しているかということが、次に続く「やもめの献金」で取り扱われています。

イエスは賽銭(さいせん)箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41~44)

当時の神殿での献金は、誰がどれくらい献金したかが分かるようになっていたわけです。大勢の金持ちがたくさんの額を献金して、自分の財力を誇っていたのに対して、一人の貧しいやもめがわずかの額、レプトン銅貨2枚をささげます。

レプトン銅貨は非常に小さい金額の銅貨で、大人の1日分の日当といわれる1デナリオンの128分の1に相当すると聖書の巻末にあります。茨城県の最低賃金は昨年10月1日から796円ですから、8時間労働で6368円、その128分の1は49・8円、約50円です。それが2枚なので100円ということになるでしょうか。

心の中の偶像礼拝(マルコ12章35~44節) 山本隆久
原町聖愛保育園の園庭で遊ぶ子どもたち

私たちにとって、自分が人から認められることを望むのは、偶像礼拝と同じです。つまり、そこでは自分のこの世での利益が求められているからです。しかし神様は、人の目にはつかない小さなことでも、私たちが神様のためになしたことを覚えてくださり、報いてくださる方です。私たちは自分が認められなかったり、良いことをしたのに悪しざまに言われたり、不当な扱いを受けたりすると、怒りにとらわれますが、そのような時、神様が認めてくださっており、神様はご存じであることを信じて喜ぶ者でありたいと願います。

そして、そのように困難の中で神様の正しさを信じて歩むならば、私たちは今の福島の原発事故によって困難の中にある人々とも連帯していくことができると考えます。なぜならば、神様に認められていることのみを信じて喜ぶことができるならば、それは、私たちがいかに人から認められないことや、誤解を受けることの苦難を十分に知っていることを意味しており、そのような困難の中にある人々を忘れないということ、そして彼らを自分自身のことのように考えられるということを意味しているからです。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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