最も大切な律法(マルコ12章28〜34節) 山本隆久

2018年8月29日16時15分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
Facebookでシェアする Twitterでシェアする

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28〜34)

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と、律法学者がイエス様に尋ねました。イエス様が人々との議論に見事に答えられるのを見て、「この方に聞いてみたい」と思えるような敬意を、律法学者はイエス様に持ったと考えられます。その質問は、何か相手をひっかけようとか、陥れようとするものではありませんでした。

イエス様は「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を第一の掟として挙げます。普通ならば、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という問いなのですから、この第一の掟で問いには十分に答えられたのではないかと考えますが、イエス様は、第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい」を挙げて、「この二つにまさる掟はほかにない」とお答えになっています。

大切な掟が2つあるということは、今日の私たちの日本の教会の中にもその影響を見いだすことができます。教会の右派と左派といわれるものが、これに当たります。礼拝と伝道を中心として教会員を増やすことを教会の目的とする傾向を持つのが、右派とか福音派と呼ばれます。神様を愛するという第一の掟に重心を置いています。左派は「隣人を自分のように愛する」ことを大切にして、伝道よりも社会奉仕などに重点を置いています。この左派と右派は、ことあるごとに互いに離反し対立していますが、共に大切なイエス様の教えの一端を表しており、左派と右派のどちらが正しいというようなものではなく、お互いがお互いを尊重することによって、イエス・キリストの真理をこの世に証ししているということです。

「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」

この第一の掟に、申命記6章4〜5節の言葉をそのまま引用しているのは、非常に特徴的です。この場面で「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)という十戒の第一戒を持ってくることも可能でふさわしいことだと考えられますが、そのようにはなさっていません。また十戒にも、このイエス様がおっしゃっている2つの極、神への愛と隣人への愛の2つの極があることが分かります。

「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト20:17)という十戒の最後の戒めが、「隣人を自分のように愛しなさい」に関係するものであることは明らかであり、第一戒から安息日を守れという第四戒が神を愛することに関係しており、第五戒の「父母を敬え」から第十戒が隣人愛に関することであることが分かります。

「イスラエルよ」と具体的な民族の名をもって呼ばれていることは、大きな意味があります。一般的な原則、決まり、道徳とは違うということです。「神様を大切にしましょう」「隣人を大切にしましょう」というように言われているのではないということです。神様の救いにあずかり、困難から助け出された人々がイスラエルです。私たちもイエス・キリストの救いの御業を通してイスラエルに連なっています。「イスラエルよ」と呼ばれているところに、私たち一人一人の名を入れて読んでみることも意味があります。つまり、戒めの基礎は、神様が私たちに呼び掛け、そして命じておられることにあります。それは、私たち人間に与えられた大きな恵みであり、喜びです。それは、私たちがこの世に向かって生きてゆく根拠です。

「聞け」という命令がなされていることも非常に特徴的です。なぜならば、私たちは「神様!」と困ったときには呼びますが、神様に聞くという姿勢は実際のところ皆無だからです。私たちは、神様に向かって「私の言うことを聞いてください。私の願いをかなえてください」と言うばかりで、神様が何を私におっしゃっているのか、神様の私たち自身への願いについて無関心です。聖書を読むということは、ですから、この神様のおっしゃっている言葉に聞くということです。

「聞け」と私たちに語られている最初の聞くべき言葉は、「わたしたちの神である主は、唯一の主である」ということです。これは、多神教世界と一線を画する言葉です。日本の神道などの多神教では、無数の神があります。それは実際のところ、人間が神だと思ったものがすべて神です。私たち人間が作り出した神々ではなく、私たち人間を創造した神は、人間の知性と理解を超えた方ですから、その方は「ある(存在する)」ということにおいて一つなのです。複数いるというように認識できるならば、それは人間の知性が認識していることになるからです。

多神教世界というのは、人間が自分で考え判断していることが問われることなく真実として通用する世界です。「世界はこのようなものだ」と人間が考えることが、そのまま現実として理解されています。多神教世界で人間が神としてあがめられたり、死んで神となったりするという思想があるのは、この人間の思考形態に原因があります。つまり、「世界はこのようなものだ」と判断し、神々を人間自らが規定しているので、思考している人間の次元の方が、神々よりも高いことになるので、死後も魂が永遠に生きるという思考を生み出しているのです。

多神教の世界は、人間の思考が作り出している世界ですから、そこでは本当のところは人間が主人です。神様は、アラジンの魔法のランプに閉じ込められている魔人と大して変わりなく、人間の僕(しもべ)です。あるいは天照大神(あまてらすおおみかみ)のように、その人間集団を支配している人の権威の保証をしていますが、実際の権力は支配者が握っています。ですから、この多神教世界では、神の階級関係があります。お稲荷(いなり)さんは正一位(しょういちい)とされています。これは最高の位ですが、天照大神などは位がありません。つまり、位を付けられるということは、主人ではなく、僕であることを意味しています。

私たちの神は、私たちの主であり、ただ一人のお方です。これは、多神教世界に対して絶対的なノーを突き付けています。私たちの願いをかなえてくれるのが神ではなく、神に仕えるのが私たち人間の役割であり、それがそもそも私たち人間が存在している意味だ、とこの掟は定めているのです。そして、これが掟であり続けるのは、私たち人間は罪の中にあり、「わたしたちの神である主は、唯一の主」とは、自然に考えることができないという現実を明らかにしています。

日本社会は、多神教がベースにある異教社会ですので、この聖書の言葉の意味が非常に分かりやすくなっています。「天子様の大御心に生きる」というのは、多神教ならではのものです。この天子様を頂点として人間の上下関係が形成されます。また偉大な支配権を築いた王は、自らを神としてあがめさせます。この過ちは歴史上数限りなく、共産主義の国々を見るまでもなく、「野球の神様」などという言葉も含めれば、今も日常的に起こっている現象です。「天子様の大御心に生きない」人々は、よそ者であり、敵という意味での外国人であり、征服されなければならない人々です。人身御供(ひとみごくう)は非常にしばしば、通りがかりのよそ者が犠牲となります。

私たちの神がただお一人の主であるということに基づいて、初めて「隣人」という概念が成立します。これは、実は非常に革新的な概念です。「遠くの親戚より、近くの他人」というような意味で私たちは隣人という言葉を理解しがちですが、それとは実は根本的にまったく違っています。

隣人は、世界を創造された唯一の主なる神への信仰を基礎として、すべての人間は、その神によって創造された同じ被造物であると理解するところに成立します。隣人とは、具体的に何らかの関わりを持ち得る存在です。この概念設定によって、「隣人を愛しなさい」と言うことにより、国籍や宗教、利害関係などの他人を分類するカテゴリーをすべて除却しています。イエス様はこれを明確にするために、「敵を愛しなさい」と教えられ、「善きサマリヤ人のたとえ」をお話しくださって、隣人とは自分の利益になる人間集団の囲い込みではなく、「私は隣人になっているのか」という自分自身の神への責任を問う生き方を教えてくださいました。それは生きる神が人となって私たちに仕えてくださったという、イエス・キリストの証しによっても明確にされています。

このことは、十戒にも適用されるべきことで、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という第十戒は、外国人にも敵にも当てはまることです。それは、イスラエルという国が、神によって定められたカナンの地を守って、版図の拡大を目的とした政策は積極的に行わなかったという歴史においても顕著だといえるかもしれません。彼らのアイデンティティーは、神にあり、その神に礼拝をささげるエルサレム神殿を誇りとしていたからではないでしょうか。一方で、その誇りが傲慢(ごうまん)となり国が滅んだとも告白しています。

私たちにとって、唯一真の主なる神を礼拝する場所はどこでしょうか。私たちの心の中にそのような場所があるでしょうか。実に私たちの人生そのものが、神を礼拝し、神に賛美をささげる神殿であるという自覚が私たちにあるでしょうか。

<<前回へ     次回へ>>

山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

Facebookでシェアする Twitterでシェアする

関連記事

クリスチャントゥデイからのお願い

いつもご愛読いただき、ありがとうございます。皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは月間40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。

記事の一つ一つは、記者が取材をして書き上げ、翻訳者が海外のニュースを邦訳し、さらに編集者や校閲者の手も経て配信しているものです。また、多くのコラムニストや寄稿者から原稿をいただくことで、毎日欠かすことなくニュースやコラムを発信できています。

この日々の活動を支え、より充実した報道を実現するため、読者の皆様にはぜひ、祈りと共に、サポーターとして(1,000円/月〜)、また寄付(3,000円〜)によって応援していただきたく、ご協力をお願い申し上げます。支払いはクレジット決済(Paypal)で可能です。希望者には、週刊メールマガジンも送らせていただきます。サポーターや寄付の詳細、またクレジットカードをお持ちでない方はこちらをご覧ください。

  • 金額を選択:
  • 金額を選択:

コラムの最新記事 コラムの記事一覧ページ

主要ニュース

コラム

人気記事ランキング