ぶどう園のたとえ(マルコ12章1〜12節) 山本隆久

2018年8月22日15時39分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。(マルコ12:1~12)

このぶどう園のたとえは、第一義的には、神の都エルサレムを指すと考えられます。「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」という表現は、エルサレムの町を囲む堅固な城壁や見張りの塔を連想させます。ぶどう園の収穫を受け取るために主人から遣わされたのは預言者たちで、ぶどう園の「収穫」とは、この町の住民の「悔い改め」です。悔い改めを告げる神の預言者の言葉は、受け入れられることはありませんでした。預言者たちは耳障りな邪魔者として、殺されることも度々でした。

ただ、そのような預言者たちの言葉が旧約聖書に記録されているのは、預言者たちの言葉が実現し、「悔い改めないと、神様によって滅ぼされる」との言葉通りに、エルサレムが本当に滅ぼされてしまったからです。イエス様の時代は、一度滅ぼされたエルサレムがバビロン捕囚を経て再建されたものです。バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国の王キュロスによって、紀元前538年にエルサレム神殿の再建を命じる勅書が出され、それから約20年を経て、515年4月1日に第2次エルサレム神殿が完成します。さらに70年ほどの時を経て、エルサレムの城壁は445年から433年の12年間にわたって修復されました。その後、イスラエルはアレクサンダー大王に占領されたり、エジプトや隣国シリアの支配下に置かれたりし、イエス様の時代にはローマ帝国の支配下にありました。洗礼者ヨハネもまた、イエス様のたとえの中のぶどう園の主人から遣わされた僕の一人と考えられます。

このイエス様のぶどう園のたとえ話は、歴史的に見ますと実際に実現しています。神の愛する子であるイエス・キリストは、エルサレムで捕らえられて十字架につけられて殺されます。しかし、主は復活されて、この復活の主に出会った人々によってキリスト教会が形成され、世界中に広がっていきます。まさに「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」とは、イエス・キリストの死と復活を示しています。

イエス様が天に昇られてから、イスラエルはローマに独立戦争を仕掛けますが敗北し、紀元後70年にエルサレムはローマ軍によって破壊されます。エルサレム神殿も破壊されて今日に至っています。今はエルサレム神殿の敷地内にイスラム教の黄金の屋根を持った「岩のドーム」が建てられています。

そして、このイエス様のたとえ話は、私たち個人にも現実のものとして実現しています。私たちの命は神様から与えられたものです。神様は、目的をもって私たち一人一人を創造されました。しかし、神に対して感謝をささげるどころか、「神などいない」と言って、自分の人生は自分のものだと思っています。自分自身が精神的に本当にある意味どん底を経験しなければ、悔い改めるようなことはありません。ですから、私たちの命は取り上げられて死にます。しかしイエス様を神の子、キリストとして、私たちが受け入れること、そこに救いの道が示されています。

このたとえには、神様が忍耐強い方であることが示されています。何度も僕を送っていることから、それが分かります。普通ならば、一度でも主人が送った僕に失礼をしたら、大変なことになるはずです。何度も僕を送り、そのたびに侮辱されたり、殺されたりしているのですから、それはもはや異常ともいえる寛容さです。それはいかに神様が、このぶどう園の農夫たちを大切に思っているかということを表しています。

またそれは、このぶどう園からのささげものがなければ、このぶどう園の主人が生きてゆくのに困るというものではないことにも要因があると考えられます。ならば「構わなければいいのではないか」「未練がましいのではないか」と、考えることも可能ですが、そうではなく、悔い改めの中で神様に感謝したときに、本当の喜びが生じるという真実から、このたとえが生まれていることを表しています。

このたとえの中の農夫たちは、エルサレムの宗教的な指導者たちを表しています。イエス様はエルサレム神殿を訪問されたとき、本来祈りの場であるはずの神殿が、両替商や奉納物を売る商人の占める商売の場となってしまっていることに怒り、商人たちを力づくで追い出しました。この商人たちの利益の一部は祭司たちにささげられていたはずですから、イエス様を亡き者にしようとする動きが、祭司たちの間に起こったことは容易に想像されます。

このことは、私たち個人においては献金と関係します。私たちは収入の十分の一を目安として、それぞれが自由に決めた献金をしています。しかし、ちょっとでも献金の話を出すと、「もう教会には行かない」というようなことは割と起こります。それは、私たちの人生の目的が、それぞれの人生における自己実現となっているからです。福音に生かされ、福音を生きるということが、私たちの人生の目的ではなく、自分の思いが実現されるために神様の力を利用しようとしているからです。つまり、自分が神様より偉いということです。

たとえば、インドネシアのミナハサは、キリスト教会が非常に盛んな地域で、彼らは、茨城県大洗町にも教会を形成しています。私たちの教会もインドネシアの人々が設立した大洗ベツレヘム教会と交流があります。大洗で、インドネシアの人々を雇用しているある水産加工会社の社長さんが「ミナハサの人たちは、教会が一番大事で、教会のために生きている」と言っているのを聞いたことがあります。私は、宗教とはまったく無縁な社長の言葉でしたので、「本当にインドネシアのクリスチャンの方々がいい証しをされているのだ」と思い、記憶している次第です。

イエス・キリストを信じるように勧め、伝道するということは、私たちの人生を本当に豊かにするものであり、それは、私たちすべてのクリスチャンに与えられている大きな恵みです。その恵みの大きさが、この福音を私たち日本人がここで今、福音を聞いているということに現れています。この福音は、日本人がキリスト教に関心を持ち、私たちの国でもキリスト教が必要だと考えて、キリスト教国に行って、キリスト教を学んで広まったものではありません。「日本には日本の宗教がある。キリスト教は耶蘇(やそ)だ。外国の邪悪な宗教だ」と多くの人々が思っている日本にわざわざやって来て、迫害と困難の中で福音を伝えた宣教師たちがいるからです。

福音を伝えるということは、神の御業に参与するということです。このことがいかに尊い素晴らしいことであるかを、私たちは学び知らなければなりません。それを学び知るためには、私たち自身が福音を伝えることを始めなければなりません。この福音を伝えることを通して、私たちは、神がいかに忍耐強い方であり、途方もない愛で私たちを愛してくださっているかを、私たち自身の人生の中で具体的なものとして体験することを許されます。

ただ町で、キリスト教のトラクトを配っているだけでも、「こんなもの信じるのはばかだ」などという捨て台詞を浴びせ、トラクトを目の前でくちゃくちゃにして道に捨てるような人もいます。内心、腹が立ち、そんな体験をするとトラクト配りもしたくなくなりますが、聖書の預言者たちや日本に来た宣教師たちに比べれば何でもないことです。むしろそれが、その何でもないことさえ嫌だと思う自分自身の信仰の問題点に気が付く契機になります。また、そのトラクトをくちゃくちゃにして捨てる人に、私たちは自分自身の過去を重ね合わせることもできます。神様はそのような私たちを忍耐強く導き、福音を信じるように語り続けてくださっています。

福音を語り、伝えることが、教会の使命であり、私たちクリスチャンに与えられている奉仕です。私たちは教会という組織を形成すると直ちに、その組織の中で、人よりも「偉い」地位に就くことを望みます。教会の役員になることが出世のように思え、そういった思いに虜(とりこ)にされてしまいます。それは恐ろしい誘惑であり、このイエス様のたとえの中にある農夫たちが犯した過ちです。私たちはすぐに人をコントロールしようとし、支配しようとすることによって自分の生きている意味を見いだそうとするからです。

私は、神学校時代に新約学を教えてくださった川島貞雄先生の言葉を思い出します。「皆さんは、聖書を読んで、勉強を怠ってはいけません。地区長や教区長になるのを出世のように思ってはいけません」。私は良い教師に教えていただいたことを今も感謝しています。

私たちの人生の目的と意義は、イエス・キリストの福音にあずかり、イエス・キリストを証しすることにあります。証しするということは、福音を伝えるということです。牧師や限られた才能を持った人々が、福音を証しし伝えることができるのではありません。私たち一人一人が生きている条件の中で、身の回りにいる人々に具体的に福音を信じて生きるということを示しているのです。そして福音を伝えることを通して、私たち自身が福音を学び、豊かにされてゆくのです。

それは、本当の自分自身になってゆくプロセスでもあります。神によって創造された本来の自分が明らかに内側から光り輝いてくることです。自分に対する自分自身の思い込みから解放されて、神様の愛に信頼して生きる自由がそこにはあります。私たちの個性が明らかになり、あなたの個性が輝き出す場です。その輝きが福音を伝えるのです。

私たちは自分を信じるなどということはできません。自分がいかに頼りなく、吹く風のごとくコロコロ変わり、しっかりとした信念など何もないことを知っています。しかし、私たちは神に信頼します。常に変わることなく、私たちを育み、愛してくださっている神の愛に信頼し、その愛によって生き、その愛を証しすることが、福音を伝えることです。

どのような困難の中にあっても、この福音を伝えるチャンスはあります。むしろ困難の中にある方が、福音に生きていることが明らかになるのです。主も十字架の苦難を通して神を証しされました。

私たちの人生が福音を証しし伝えるものでありますように。その喜びの輪が、私たちを通して、まだ福音を知らない人々、信じない人々に伝えられてゆきますように。聖霊の力が私たちに満たされますように。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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