子どもを招くイエス(マルコ10章13〜16節) 山本隆久

2018年8月8日17時31分 記者 : 山本隆久 印刷
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イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13〜16)

このイエス様のお言葉と行動は、クリスチャンが、子どもの人格を大切にして尊重する根拠となっています。そして、キリスト教の幼稚園や保育園などでは、このイエス様のおっしゃったこと、なさったことが教育の根幹に置かれています。

日本は遅れているとはいえ、現在のところ、子どもの人権というのはかなり認められています。万葉集には、山上憶良(やまのうえのおくら)の「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子に如(し)かめやも」のように広く知られた和歌もあり、ともすると私たちは、「日本では昔から子どもが大切にされてきた」と考えます。それは、人間の親としてごく当たり前のことであると考えられます。「イエス様は何も特別なことを言っていない」と思われるかもしれません。

しかし、イエス様がおっしゃったことは、単に「子どもはかわいい。子どもは宝だ」ということではありません。

イエス様に触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきました。その人々を弟子たちは叱ったのですが、弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか。病人や体の不自由な人々を癒やすのは、緊急性があります。その病人や体の不自由な人々の癒やしだけでも大変な数なのに、病気でも何でもない子どもたちまで連れてこられたら、イエス様の体がもたないと弟子たちは考えたのかもしれません。「子どもたちは元気なんだから、連れてくる必要はないじゃないか」と彼らは考えたのかもしれません。

しかしイエス様は、子どもたちを連れてきた人々を叱った弟子たちを叱られました。

聖書を理解しようとするときに大切な視点は、私たちの通常の考え方は、イエス様が叱られた弟子たちのそれに勝るものではないということです。弟子たちと同じような行動をしている自分自身を見いだすこと、そして、その地点に立って思考を再構築することが必要です。例えば、王様や天皇陛下、大臣などがいる所に子どもが走り寄っていったら、親は止めるでしょうし、そもそもそのような場に子どもを連れていかないのが普通です。天皇陛下は被災地などを回られることがありますが、その陛下のいる所に勝手に子どもを連れていって「この子の頭をなでてあげてください」と言うようなことは、あまり聞いたことがありません。警備上の関係で、自然なように見えても、誰とどのように会うのかも基本的には細かく決められていると考えられます。弟子たちは、イエス様に仕える者として、ある意味普通のことをしたと考えられます。

その弟子たちをイエス様は叱られました。聖書が素晴らしいのは、弟子たちがイエス様に叱られたこと、つまり失敗したこともきちんと書き記されており、それを後世に伝えようとしていることです。普通は自分たちの愚かさを人に伝えようとはしません。大抵は「自分はこんな業績を残した」「こんな素晴らしいことをした」ということを伝えます。

聖書はある意味、イエスの弟子の弟子くらいの人々の記憶があやふやにならないようにと書き留められたものです。そうであれば、失敗談は先人のことを悪く言うことになりますから、ますます避けられるはずですが、聖書は主に失敗が書き記されています。それは、イエス・キリストに従った弟子たちがいかに謙虚で謙遜な人々であったかを指し示しています。そして、その彼らの謙虚さと謙遜さに、私たちは襟を正し敬意を払うべきなのです。決して「弟子たちは何と愚かなのだろう」と笑えることではないのです。

それは、ものすごいことなのです。振り返って、私たち自身について考えてみると、それがよく分かります。私たちは自分の親が偉い人であれば、それを誇らしげに思います。ちょっとした金持ちだったとか、どこか良い大学を出ているとか、市長や大臣、有名な学者だとか、そういうことが自分の誇りになり得るのが普通です。夏の高校野球が開催されていますが、それだって「甲子園に出場したことがある」と言えば、「へぇー、すごいなぁ」ということになるではありませんか。

人は、自分の業績や能力に、自分が自分であることの自信を見いだします。そして逆に、そのような人に誇れるようなものがなければ、劣等感を感じます。劣等感を感じることも、家柄や能力、社会的地位などの物差しで、自分の価値を判断している証拠です。

イエス・キリストの弟子たちはまず、私たちが普通持っているこうした価値観から解放されていたのです。それは、ものすごく素晴らしいことです。

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(14節)

私は、この言葉は何も、子どもの純真さを手本としなさいというような意味ばかりではないと思います。イエス様の目、つまり神様の目から見ると、私たちは、聞き分けがなく、わがままで、どうしようもない駄々をこねる子どもと全然変わらない、ということも意味すると考えます。

また、このイエス様の言葉から「子どもの素直さや純真さが大切なのだ。小さな頃、サンタクロースが本当にいると信じていたような信仰が大切なのだ」という方向性で考えられることもあります。「子どもがサンタクロースを本当だと信じるように、神の国を本当に信じなければならない」ということです。「信じて、疑うことを知らない」という状態です。このような方向性でイエス様の言葉を理解することも、間違っているとは思いません。しかし、それは「だから、疑って考えることをしてはいけない」ということではありません。

私たちが目を向けるべきことは、イエス様の言葉の通りに、まるで子どものように神の国を単純に信じ、それを受け入れようとして生きてきた人々が確認した、イエス・キリストの言葉の真実によって、この言葉が語り伝えられてきたという事実です。

そして、この子どもたちを抱き上げて祝福されたイエス様は、私たちに、私たちの人生の目標を具体的に明確に示してくださったのです。それは実のところ、非常に具体的ではあるのですが、よく理解できない面もあります。なかなか言葉にして表現することが難しいものです。しかし、それは先ほど申し上げたことと方向性としては重なっています。つまり、努力をして自分の業績や能力によって自分を築き上げていくのではなく、むしろ、その自分の業績や能力、家柄などを脱ぎ去り、虚栄ではなく、真実で確かな永遠に目を向け、常に前へ向かってゆくという生き方ではないでしょうか。そして、そのように努力するのであれば、それは本当に神様の恵みに満たされた人生であり、感謝に満ちあふれた人生であるということです。

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(15節)

神の国に入るということが、私たちの人生の目的です。私たちが今、どのような状態にあろうが、地位、名誉、富があろうがなかろうが、目指しているのは神の国に入ることです。それは、子どものように神の国を受け入れているのかどうかという問いが、私たちに向けて常に発せられているということです。

それは私たちの自由と平安の象徴であり、その問いは、私たちに謙遜をもたらし、だからこそ私たちの人生を喜びで満たし、私たちは神の栄光を仰ぎ見るのです。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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