キリストに従う(マルコ9章42〜50節) 山本隆久

2018年8月1日10時18分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(マルコ9:42〜50)

世間には、キリスト教に対する大きな誤解があります。その誤解は、クリスチャンである私たち自身も持っていることがあります。その一つは、「イエス・キリストを信じると、だんだんこの世がよくなる」とか、「この世をよくしましょう」ということを、キリスト教が伝えているという誤解です。そうではないのです。キリスト教が広まっていく中で、その社会が改善されるということは、伝道の結果として起こりますが、社会の改善をキリスト教は目指しているのではないということです。

そうではなく、イエス様もこのマルコによる福音書の初めの方で明確におっしゃっているように、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということを伝えているのです。神の国、つまり終末と世の終わり、神の裁きを伝えているのであり、その裁きに備えて悔い改めることが、イエス・キリストを信じることであると、キリスト教会は宣言しているのです。イエス・キリストの復活の真実性、事実性は、その神の裁きの到来の真実性と確実さを示しており、その裁きを赦(ゆる)されて永遠の神の御国に入ることができる道があることをキリスト教会は伝えています。

かつて一世を風靡(ふうび)した邪悪な宗教は、「キリスト教が広まることによって、この世の中が全然よくなっていない」ということを理由として、自分たちの宗教の正当性、意義を主張しました。しかし彼らは、印鑑や壺を信じられないような高値で売る、詐欺まがいの活動を是としたのです。

また私たちの身近にも、それどころか私たちの中にも、「キリスト教が広まっている欧州や米国でもいろいろと間違ったことや悪しきことがたくさんあるから、キリスト教は信じるに足らない」とする考えがあります。しかし、キリスト教会はもともとそのようなことを目指していませんし、教えとしても、目的としても、この社会の改善を目指していません。そうではなく、私たち一人一人に差し迫った裁きと悔い改めが本当に大切であり、それがなされなければならないことを伝えているのです。この裁きと悔い改めを前提として、イエス・キリストの復活の御業があり、イエス・キリストの復活は、私たちの悔い改めと裁きの時への備えです。

わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(42節)

「わたしを信じるこれらの小さな者」が誰を指すかについては、マルコによる福音書では、2通りの可能性があります。それは9章後半に書かれています。1つは、イエス様を信じる小さな子どものような人々、もう1つはイエス様の名によって悪霊を追い出しているが、イエス様の弟子たちの言うことを聞かない人々です。

このイエス様の言葉は素晴らしい画期的なものです。なぜならば、私たちは、自分をつまずかせた人に対しては徹底的な注意を払い、批判しますが、自分が人をつまずかせたことについては、何ら注意を払わないからです。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は・・・」と言った直後に、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら」と、私たち自身に注意が向けられています。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は・・・海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」というイエス様の言葉を聞いて、私たちは「このイエス様の言葉は、誰々にぴったり当てはまる」とか、「あの人が、私にした仕打ちはまさにこのイエス様の言葉の通りだ。あのような人こそ海に投げ入れられてしまう方がはるかによい人だ」と考えます。

しかし、自分自身が小さな者の一人をつまずかせるようなことをしているのではないか、と気を配ることはあまりしません。まったくしないといっても過言ではないでしょう。このような仕方において、私たちは神様の前に立っているのです。「あの人は海に投げ込まれた方がいい人だ」と言うとき、私たちは神様の前に立っていません。神は私たちに臨んでいらっしゃいません。神は私たちと共にありません。私たちが、神様の席に座ろうとしています。神様を押しのけて裁きと支配の王座に座ろうとしているのです。

「私は海に投げ込まれた方がいい人ではないだろうか」と疑問を持ち、自身を反省し、「私は海に投げ込まれた方がいいような人と同じことをしてきた」と告白し、イエス・キリストに赦しを請うとき、私たちは神様の前に神様と共にあるのです。それは、神様が私たちを救いの恵みの内に入れてくださり、私たちをその御手の内に守っていてくださる証拠です。

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。(43〜47節)

手や足や目を失うことは、恐ろしいことです。私などは、ちょっと体の調子が悪いと健康を気にします。そして、体の不自由な人を見ると、大変な不幸を身に負ったかわいそうな人だと思います。

しかし本当の幸福は、まったく違った尺度を持っているのです。ここでは、五体満足で健康であることが人生の意味ではないことが宣言されています。永遠の命へは、私たちの肉体が五体満足でなければならないわけではまったくないことが言われています。

私たちはこの世で自分の幸福を求め続けます。そのために人を押しのけ、小さな者をつまずかせても何ら気に留めません。小さな者をつまずかせ、人を押しのけるところにこの世の幸福があります。

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(49、50節)

塩とは清めるものです。それは神の言葉です。自分自身の内に塩を持ちなさいとは、神の言葉を自分の内に持つこと、つまり、人を裁くためではなく、自分自身の行動を決定する基準として、自分自身が神の言葉に従うことを意味します。神の言葉を他人に当てはめて、他人を裁くことは、塩を自分の外側に持つことです。塩気を外に出してしまって、自分自身にとって必要な塩気を失ってしまってはなりません。

そして、互いに裁き合うことによって、互いに平和に過ごすことができなくなります。この分かりきった真実を私たちは行うことができません。ですから、主イエス・キリストは十字架で死なれたのであり、私たちはイエス・キリストを信じているのです。

自らが正しい者ではなく、罪人であり、人を裁いてしまう者であると告白することによって、私たちは主の栄光を賛美し、福音の素晴らしさを証ししているのです。

要は、イエス・キリストを信じた私たちが問われているのは、「本当にイエス・キリストを信じ、彼に従っているのか」ということです。他人である彼または彼女に信仰がないと問うのではなく、私がイエス様の言葉に従っているのか、ということなのです。イエス・キリストを信じるということは、私自身がどうあるべきかを神様から直接問われているということです。その神様の私に対する直接の問いに答えるのが信仰です。なぜならば、その信仰によって、私の救いは確実なものとされているからです。ですから、彼または彼女には信仰がないとか、兄弟姉妹を批判する余裕はありません。それは余裕ではなくて、不信仰なのです。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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