地の塩、世の光(マタイ5章13〜16節) 山本隆久

2018年7月25日14時46分 インタビュアー : 山本隆久 印刷
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「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台(しょくだい)の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13〜16)

私たちが、イエス様を信じて生きることは、私たちが地の塩であり、世の光であることだといわれています。それは、私たちの性格や能力、素質が良いので、地の塩のようにこの世の中にとってなくてはならない有益な存在だということではなく、また、光のように人々を照らすのではありません。その根拠はまず、イエス様が、イエス様に従う弟子たちにおっしゃったことにあります。つまり、イエス様が弟子である私たちに「あなたがたは地の塩、世の光」とおっしゃったから、私たちは地の塩であり、世の光なのです。

いつイエス様は私たちに「あなたがたは地の塩、世の光」とおっしゃったのでしょうか。それは、私たちが自分自身にさえ絶望し、自分の無力さを感じ、周りの人々からも嘲笑を浴びて、「この世に生きている意味なんて何もない」と思うような時です。逆説的ですが、私たちが何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏み付けられているようなとき、あるいは、素晴らしいことをなしたのに誰からも褒められず、かえって、そのなしたことが人々から隠され、ともし火をともしたのに升の下に置かれてしまったようなときに、イエス様は私たちに「あなたがたは地の塩、世の光」と宣言されたのです。

この「地の塩、世の光」の前には次のように言われていました。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐(あわ)れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(3〜12節)

貧しさの中にあり、悲しみの中にあり、柔和でなければならない状態であり、義に飢え渇くということは、正義が行われておらず、苦しんでいることです。義のために迫害されている人です。それは、人々に踏み付けられ、升の下に置かれている状況と同じです。

その私たちが「この世でみんなから見放されている」と思うとき、イエス様は私たちに「あなたがたは地の塩であり、世の光である」「あなたがたは、とっても重要な役割を担っている」とおっしゃっているのです。「もっと頑張れ」と言っているのではありません。「負けるな」と言っているのではありません。「あなたの今の困難は神の御心であり、神のご計画の内にあることだ」とおっしゃっているのです。そして「その神のご計画は、あなたを通してなされるのだ」と宣言されているのです。「神様はすべてをご存じで、ご自身の栄光を、あなたがたを通してこの世に現そうとしているのだ」と語られているのです。

そして、神様のご計画が私たちを通してなされることは、私たち人間にとって考えも及ばない素晴らしいことであり、あらゆる喜びの中の喜びに満たされたことであり、これこそが永遠に生きる命の素晴らしさであり、ただただ感謝することで、人生が満たされることを意味しています。

その神様のご栄光は、私たちが今、踏み付けられているから、踏み付け返すことによって現れるのではありません。外に投げ捨て、踏み付ける者を愛し、赦(ゆる)すことによって現れます。

それはイエス様が歩まれた十字架の道を進むことです。私たちは、イエス様のように十字架にかかる必要はありませんが、イエス様の十字架の死によって救われているために、イエス様の十字架の死が、私たち一人一人の人生の中で明らかになります。そして、十字架で死んだイエス様が復活されて天に昇られたように、私たちも、私たちの人生の中で与えられる十字架を負い、死んで、そしてよみがえるのです。それはもちろん自殺ではありません。自分の思いを捨てて神様の思いに従うことです。神様の愛に信頼して、絶望の中にあっても希望を信じて生きることです。いやそれは、絶望の闇の中に希望の光が天から差してくることなのです。

踏み付けられているから踏み付け返すとは、「私がこんな状態にあるのは、あいつのせいだ、あの人のせいだ、親のせいだ、夫だ、妻だ、配偶者のせいだ」と、言い続けることです。イエス・キリストを信じるということは、もはやこのように自分の不幸を他人のせいにする必要はまったくないということです。私がこんな状態にあるのは、他の誰のせいでもなく「神様のせい」、つまりこれこそ「神様の恵み」なのだと信じることが、イエス・キリストを信じることだからです。

「えっ、私のこの惨めな状態は神様のせい? 神様、不公平じゃないですか?」ということではありません。そうではありません。神様は、神の子である私たち一人一人に、神のご栄光を、その場で、私たちの今、身の回りにいる人々に現すために、私たちそれぞれに任務を与えられているということです。奉仕の場を与えられているということです。

私たちは、この世のことしか考えず、来るべき世で与えられる報酬など思い付きませんから、この世の今の状態が、神様から与えられる報酬だと思っています。しかし、来るべき世で神様が与えてくださる報酬の素晴らしさを思うならば、今の私が「何でこんなに惨めな状態にあるのだろう」と思うような状態は、惨めでも何でもないのです。「えっ、私は何にもしてないのに、こんなにもらっちゃっていいのでしょうか?」とか、「その恵みの大きさの故に、今ある苦しみは何でもない」などと言えるようなものなのです。

これが私たちのイエス・キリストを信じる信仰です。そして、イエス・キリストを信じる信仰は、このような「神様が与えてくださる恵み」「死後の裁きの後の報酬の素晴らしさ」が、単なる人間の空想ではなく、本当にある、本当に起こる現実なのだと宣言しているのです。それは、復活が本当に起こったからです。

「人間、死んでしまえばおしまいだ」というのは、人間の限られた経験に基づく想像の世界、空想の世界なのです。イエス・キリストは、この私たちの人間の限られた経験に基づく想像の世界、空想の世界を打ち破り、真実を示してくださいました。

永遠の命は、人間のはかない希望ではありません。死後の裁きは神様の厳しい現実であり、信じる者に与えられる神の恵み、永遠の命は、この世の富や名誉、地位よりも確かなものなのです。

その恵みのただ中に、今、私たちはいるということを覚えなければなりません。目覚めなければなりません。私たちは、いまだに眠っていないでしょうか。自分のなした富や地位、この世の名誉が、あたかも何か素晴らしい価値あるもののように思う夢の中にまどろんでいないでしょうか。この世の悲惨な現実に気が付いているでしょうか。

罪を告白するということは、何か自己否定的で、暗い消極的な生き方ではありません。それは、真実に気が付き、目を覚まして生きることです。現実を生きることが、罪を告白することです。朦朧(もうろう)とした幻と幻覚の中を生きている者は、自分の罪を告白することができません。それは、たえず自己高揚感を求める麻薬中毒者と同じです。宗教は麻薬ではありません。この世が麻薬なのです。常に自分のことしか考えないことが、まさに麻薬中毒です。

信仰は、神の御心を思い、自分の思いを捨てさせる力を持っているから、私たちを麻薬中毒から解放するのです。隣人を赦し、隣人と共に生きようとするのが信仰です。それは中毒ではありません。自我から解放された自由な、そして高貴な命であり人生が、信仰です。

私たちの高貴さは、生まれや家柄、富、学歴から来るのではありません。それらは高貴でも何でもありません。パウロは「それらのものを、ふん土のように思っている」(ピリピ3:8、口語訳)と言っています。

高貴な方は神であり、神の御子イエス・キリストです。私たちのアイデンティーが生まれや家柄、富、学歴などにあるならば、それは、私たちが投げ捨てられ、人々に踏み付けられる塩ではない塩になってしまっていることを意味しています。神の子によって永遠の命のともし火をともしながら、それを升の下に置くようなことなのです。

山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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