信仰のない私たち、祈らない私たち(マルコ9章14〜29節) 山本隆久

2018年7月18日09時17分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐(あわ)れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。(マルコ9:14〜29)

イエス様がペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて山に上り、ご自身の栄光の姿を現されました。そして、山から下ってくると、群衆が他の弟子たちを取り囲んで大変な騒ぎとなっていました。

旧約聖書では、モーセが十戒を神様から頂くために一人でシナイ山に上ります。そして帰ってくると、イスラエルの民はモーセのいない間にアロンに要求して、金の子牛を作り、神ならぬものを神として大変なことになっていました。モーセとイスラエルの民ほどではないとしても、イエス様が山から下りてきたとき、残された弟子たちは窮地に立たされていました。

ある人が、霊に取りつかれた息子を弟子たちの元に連れてきて、霊を追い払うようにお願いしました。この霊の働きは、てんかんなどと呼ばれる病気とよく似ています。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(17、18節)と、父親はイエスに状況を説明します。

そして、おそらく癒やすことのできなかったイエスの弟子たちに対して、律法学者たちが「そら見ろ、できないではないか。お前たちのしていることはペテンだ。偽物だ」と挑発するような議論がなされていたと考えられます。

イエス様は言います。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)

人々はその子を連れてきます。父親が「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と言いますと、イエス様は「『できれば』と言うか。信じる者にはなんでもできる」(23節)と言われ、父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と叫んでお願いします。イエス様は少年に取りついている汚れた霊を追い出します。その場の混乱は収拾され、家に戻った弟子たちはひそかに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」(28節)と尋ねます。イエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)と答えられたと聖書は伝えています。

ここでイエス様は、この汚れた霊に取りつかれた子どもを衆人環視の中で癒やしていますが、これは、イエス様が人に見せようとしてなさったことではなくて、状況から強制されたものです。ここでは「信仰」の大切さと「祈り」の働きの大切さを話されています。そして、その両方が弟子たちには欠けていたことが報告されています。

これは、なかなか分からない難しいことだと私は思います。しかし、唯一まことの神から遣わされた神の子、イエス・キリストがおっしゃっている信仰と、その他の宗教との信仰の違いが明らかになっています。ここで言われている信仰も祈りも、共にその信仰と祈りにおいて、私たち自身が問われているということです。

たとえば、人身御供(ひとみごくう)をささげるほどの信仰というのは、ものすごい信仰ではないでしょうか。お百度参りをしたり、真冬に冷たい滝に打たれたり、眠ることなくお堂にこもってお祈りをして、1日何十キロも歩いたり厳しい修行をしたりするのは、素晴らしい信仰の印ではないでしょうか。「一念岩をも通す」という言葉も日本にはあります。

では、日本人には「信仰」があるといえるのでしょうか。先日のテレビのニュースで、福岡県のある村で青年が鬼の面をかぶり、竹の棒を持って、村中の人たちをたたいて回るという行事があると報道されていました。たたかれると、今年1年無病息災でいられるというものです。これも信じれば、「信仰」があるといえるのでしょうか。

このような多神教的な信仰と聖書が教えている信仰とは、同じ「信仰」という言葉で言われますが、本質的に違っていると考えられます。しかし、その本質的な違いを私たちはよく分かっていないのです。ですからまずは、イエス様がおっしゃる「信仰がない」とはどういうことなのかを確認することが重要であり、そこから物事は始まるのではないでしょうか。

イエス様にお願いするということは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)ということなのです。イエス様に直接お願いすること、それが私たちの信仰です。人身御供をささげる必要は全然ありません。人身御供など、決してしてはいけないのです。たくさんお金をささげなければ、かなえられないという信仰ではありません。それは信仰ではありません。ペテンです。「願いをかなえるために厳しい修行をしなければならない」とか、「お百度を踏まなければならない」とか、「冷たい水を何度もかぶらなければならない」という信仰ではありません。それは、要するに人間の側が提供する犠牲によって願いがかなうということですから、本質的には人身御供と同じです。

子どもに取りついた悪霊を追い出したときに、イエス様が「このようになったのは、いつごろからか」(21節)と、その状況の確認だけを行っていることは非常に特徴的です。つまり、「治してほしければ、これだけの寄付をしなさい」とか、「親の行いが悪いからこうなったのだ」とか、「先祖にかくかくしかじかの悪いことをした人がいるのだ」とか、そういうことをまったく言われないで、癒やされているということは、よこしまな他の宗教や占いなどとはまったく違うのです。

人身御供が行われるような多神教的な信仰は、神様と人間がいわば犠牲を通じて取り引きをする関係にあります。つまり神様と人間とが対等なのです。日本などで、人間が死ねばみんな神様になると考えられていることは、神様と人間は対等だとする考えを持っていることを証明しています。それどころか、本当のところは人間が神様の主人で、神様は犠牲をもらうと働くいわば召使いのような存在になっています。

聖書が教えてくださっている神様は、人間から何かをもらわなければならないほど、貧しい方ではありません。天地を創造された神は、すべてを所有しているどころか創造された方ですから、無限の豊かさの中にあり、永遠にある方です。この方に、私たちは何も差し上げることはできません。人間からもらわなければならないものなど神様にはないのです。なのに、何かをあげなければならないとする信仰は、神様に対する人間の高慢です。それは、人間が神様を自分と同じようなものだと考える高慢に由来した信仰です。

イエス様は、ご自分の名によって祈ることを教えてくださいました。イエス・キリストの御名によって、天地を創造された父なる神様に私たちが祈るならば、すべてはかなえられるとイエス様はおっしゃいました。その御言葉を私たちは信じて、イエス・キリストの御名によって祈っています。このことに感謝と賛美をささげましょう。なぜならば、主イエスの言葉は真実であり、真理だからです。

人間の目には、「イエス様の名によって祈ったのに、かなえられなかったではないか」ということもあるでしょう。しかし、私たちは人生の経験を通して「あの願いをかなえてくださらなかったのは、神様の私に対する愛だった」ということを確認することの方が多いものです。そして、とどのつまり、私たちの祈りはすべてかなえられており、私たちは神様の恵みの中に生かされていることを、全生涯を通して確認するのです。

私たちは、人生において「何かを成し遂げなければ」とか、「あれこれを成し遂げた」と考えます。そして喜んだり、悲しんだりします。焦ったり、劣等感を感じたり、思い上がって人を見下したりします。このようなことで、私たちの感情が左右されるということは、私たちに「信仰がない」ということ、私たちが祈らないということを証明しています。

なぜならば、私たちがここで今生きているということが、すでに神様の大いなる御業であり、そのことへの感謝と賛美が、そこには完全に欠落しているからです。神様の御業として、私がこの世に存在せしめられているのに、なぜ神様が私を存在させてくださっているのか、その御心を求めようとしていないからです。つまり、祈りがないということです。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。

この「主の祈り」から分かるように、イエス様は私たち自身の名があがめられるように祈れとは言われていないのです。

災害が起こると、「神様は一体何をしているのか」「神様なんて本当はいないのではないか」などと言われます。「それではあなたは神を信じていたのか」と逆に問いたいのですが、それはさておきます。そのような疑問を発する人々は、要するに十字架上でイエス様をののしった強盗と同じなのです。

しかし、私たちはこの困難の時こそ、この「主の祈り」を祈るべきです。悲惨さの中で天に向かって手を上げ祈り求めること、それが人間が人間として生きていることの意味であり、それが人間の真実な姿であり、そこにこそ命が光り輝いているのです。神様が希望をくださり、神様が人間を愛してくださっているから、その光が輝くのです。さもなければ、その災害の原因は、誰かのせいにされ、時の権力者が自分に都合の悪い人間を抹殺するために利用したり、人身御供を欠かしてはならないなどとなったりするのです。ある新興宗教では、日本の信徒の献金が不足していたので地震が起こったということが平気で言われていました。今もこのような信仰の多神教化、いわゆる偶像礼拝の思考は、キリスト教会の中にすら割と頻繁に発生します。

「神様は一体何をしているのか」と問われるような神が、神として知られているということをむしろ感謝するべきでしょう。そのような神が神とされるようになったのは、福音のおかげであり、日本において、ここ100年より短い歴史しかないのです。この愛の神が人間の心の中から消えてしまったらもう大変なことになってしまいます。それは愛を否定することになるからです。

この地上と比べられないほど素晴らしい御国を目指して、私たちは歩んでいます。災害は、その歩みを止める理由になり得ません。むしろ、災害はその素晴らしい御国へ向かって歩み出す勇気と慰めを私たちに与え、苦難を乗り越えて連帯することを私たちにもたらすのです。イエス・キリストの福音によって、私たちは困難の中にあるからこそ、愛の業をなし、「互いに愛し合いなさい」というイエス様のご命令に従い続けるのです。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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